|
カテゴリ:読書
私はいいたい。キリスト教はかつてありし自惚れの中の最悪のものである。高くもなくきびしくもない人間が、芸術家として人間を形成しようとする。強くも無く視界も狭い人間が、崇高なる自己克服をもって、千態万様の不具と破滅の一目瞭然たる法則を認めまいとする。高貴において欠ける人間が、人間と人間とのあいだを深くへだてる階層と順位の深淵を見ない。――かくのごとき人間が、かれらの「神の前の平等」をふりかざして、これまでヨーロッパの運命を支配してきた。かくてついに、矮小な笑うべき種族・畜群・善良で病身で凡庸なるものが育成された。現代のヨーロッパ人が……。
ニーチェは、キリスト教の説く「神の前の平等」の思想が、高貴なる人々と凡俗な人々とを隔てる壁を破壊し、結果的にヨーロッパ人全体のレベルが低下してしまった事を嘆いている……ような気がする。後年、ナチズムにはこの辺りを曲解されて利用されたのか? 凡俗な人々=ユダヤ人と解すればそれなりに成立しそうだし、事実、ヒトラーは「わが闘争」の中でいかにユダヤ人がドイツ民族の優秀性を低下させているかを口汚く罵り、激しく攻撃している。 まことに、「自負」と「傲慢」とは紙一重である。 ニーチェが本書で説いているのは哲学者における前者であり、ナチズムが内包しているのは民族主義における後者であるのではないだろうか。自己を最上の存在と見、他者を卑下するのは紛れも無く「傲慢」さに由来するだろうから。 そして、彼が批判するのはキリスト教が行った「力への意思」の否定なのだ。この地上における人間が持ち得る美徳を覆し、失わせ、地に足の付かない来世への理想を定着させ、しかもその理想に向けて邁進する人間を優れた者とした事が罪なのだ、と言う。 力ある人々と力なき人々の悪平等が、頽廃の根源なのだ、と言う。 それが正しいのかどうかは(別の箇所で“道徳的現象が存在するのではなく現象の道徳的解釈が存在するだけだ”とも書いてますが)ともかくとして、非常に強いパワーを持った現世肯定の思想だと思う。まだ全部読んでないのであんまり断定的な事は言えないんだけど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.04 23:40:48
コメント(0) | コメントを書く
[読書] カテゴリの最新記事
|