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tartaros  ―タルタロス―

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2008.12.12
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カテゴリ:日常の出来事
坂口安吾の「文字と速力と文学」というエッセイを読んだ。
思考と筆記では後者の方が速度が遅いので、考えた事を書こうとしても、頭の中に元々あった文章とは何だか違うモノになってしまう。そういうジレンマが述べられていた。
これを読んだ時、「あるあるwwwww」と非常に同意してしまった。

言うまでも無く坂口安吾は小説家であり、物書きを仕事にしていた人だ。だから日常的にこういうジレンマは感じていただろうし、だからこそエッセイにも書き残しているのだろう。
しかし、彼のような心持は別に小説家を生業にしている人だけでなく、「文章を書く」という行為全般に常に付き纏っている。
俺はもう趣味で3年もブログなどという自己満足の塊を書き続けている訳だが、別に人様を不快にしたり社会に迷惑をかけたりする以外においては、誰はばかることなく好きな事を好きなぺースで書く事ができる。だから、安吾の感じていたであろうジレンマとは段違いのラクな精神状態でいられるハズなのである。が、それにもかかわらず、思考と筆記の速度が合致しないという現実は、どんなに短い記事を書く時にもどこからともなく現れて立ちはだかる。
安吾が当のエッセイを書いた時代、まだ現代のようなワープロだのパソコンだのは言うまでも無く存在せず、彼もまた原稿用紙にペンで一文字づつ書いていたのであろう。だから、キーを素早く打つよりはずっと思考と筆記の間に存在するジレンマは大きかったものと思われる。技術が発達するに連れてパソコンで文章を作成するという作業はごく一般的になっていった訳だが、それでも「以前に比べて格段に速くなった」というだけであって、人間の思考が有する圧倒的なスピードの足元にも及んではいない。
だからこそ、いくら頭の中で世の中を左右しかねず、且つまた世人を感涙させる名文名句を思いついたとしても、それをそのままブログ上に発表する事はできない(これはもちろんものの例えだ)。
何か文章を書く時、思考と出力=手書きであれパソコンであれ筆記は、後者がずっと追い付く事の不可能な追いかけっこを続けているのだとも言える。

甚だヒドイ場合には「さあ、今日の日記を書こう」とパソコンを立ち上げ、日記執筆の画面に進んでキーボードに手を置いた瞬間に何もかもが吹っ飛んでしまう事もある。
俺の場合、こうした現象が最も困った事態を与えるのは読んだ本の感想を書く時で、原稿用紙に換算すると大体5~6枚分くらいという、俺が個人的に書いているモノとしては比較的長い両の文章を書き終わったとき、当初考えていた感想やら考察からどれほどの彼岸に辿り付いてしまっているものやら、もはや判らない。
ブログに記事を載せて数日経った後に「そういえば××について書くのを忘れていた!」と思い返してしまうのもしばしばだ。お粗末ながらも推敲じみた事をやってみても、こうした困った現象はたびたび発生する。
これが営利の発生しない趣味の領域で書いている俺のような人間だからまだいいが、売文で生計を立てている種類の人々にとっては、場合によっては非常に大変な事になるのではないか……とか、思ってみたりする。それとも、プロはそんな失敗はしないものだろうか?
思考と出力の速度を完全に一致させるには、何か、こう「書く」という行為を超越した新しい表現技術が必要かもしれない。
たとえば、こんな。


脳内画像の再現に成功 将来的には夢の映像化も…ATR・京都府


けれども、よくよく考えてみたら、頭の中をそのまま出力したら執筆という行為自体が滅亡してしまうという危機もあるか?
もしかしたら各人が思考と出力のジレンマという、いわば「産みの苦しみ」とでも言うべき思いを味わっているからこそ、「書く」という行為に苦痛を超越した快楽すらをも感じ取るのかもしれない。さらには誰かが作った(=書いた・執筆した)文章を読むという楽しみも。





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Last updated  2008.12.12 17:14:03
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