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カテゴリ:日常の出来事
もう、クリスマスもへったくれもあったモンじゃない。 普通の晩飯だったお。 曰く、「もう子供ではないのでクリスマスは祝わなくていいから」らしい。 さすがに俺の親である。季節感が無い。 けれど俺自身、世間的なクリスマスという狂騒に対する、奇妙に冷笑的な構えのようなものが出来てきたような気がしないでもない。もうカップルが聖夜を性夜に変貌させようが、オタクがディスプレイの向こうの恋人と虚しい一夜を過ごしていようがどうでもいい、というような感じさえする。 クリスマスが充実しようがすまいが別に死ぬ訳でもなし。 すべて本人の心の在り様で決まってしまうのなら(どうせ何も無いのなら)、いっそのこと冷笑して我関せずの態度を貫いても良いじゃないか。 ……別に、何も無い事を悲しんでいる訳ではないですよ? 「荒野のおおかみ」を読み進める。 「荒野のおおかみについての論文 狂人のためだけに」と題された論文が劇中には登場する。「狂人のためだけに」なる副題がよくよく示しているように思うが、ハリー・ハラー氏はまさしく「狂人」である。 彼は、ただ社会という機構に属することを厭うだけではない。 本文中で論じられているように「人間」と「狼」という相反する二つの属性をその精神の内部に抱えている。この強烈な自己矛盾が同時に成立しているが故に、彼はそのどちらにも完全に属する事が不可能である。「編集者の手記」の終盤で彼自身が語っているように、異なる二つの文化の間に板ばさみになっている状態こそが最も苦しい物であるならば(論文の著者によって全て苦痛という訳ではないと定義されながらも)、互いに互いを否定しあう属性の同居とはただそれだけでハリー・ハラーという一人の人間を分裂させるには足る物であろう。 また、彼は「自殺者」でもある。 自殺による「死」を求めているが、彼自身は母への回帰、社会への回帰を欲している。そして、自殺とはそうした諸々の大きな存在に対する最大にして最悪の反逆なのであった。ハリー・ハラー氏にとって、反逆を行うつもりは無い。 だから彼は「死」を求めていながらも、未だ訪れる事なき「死」そのものを糧として「生」を続けていく。彼は、「死」を志向し続けることで逆説的に「生」への自覚を新たにした生活を送っているように思われる。 とことんまでの矛盾、どちらにも属することのできない男。ハリー・ハラー……。 これは、落ち着いてジックリ読むとかなり面白い小説だ。最初に読んだときは学校のクソ喧しい中で読んだので内容が殆ど頭に残らなかったという言い訳も成立するのだが。 ともかく、実家に持って来て正解だったかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.24 22:01:48
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