|
カテゴリ:日常の出来事
「恥の多い生涯を送って来ました。」
「自分には、人間の生活というものが、見当付かないのです。」…… ………。 …………。 また一年が終わろうとしている。 何故だかは知らないが、毎年の事。年の瀬に近づくに連れて心の中には無性に切ないような感情が山積していく。過ぎ去り行くものに対する寂寥と、やがて来たるものへの不安。二つが相乗してのことだとは思う。自分は飢えているのか。何も後悔もしないままに一年を終えるという安楽な人間であることを。 逃避は不安となった。 不安は現実となった。 現実は劣等感を造った。 俺という人間の一年だった。何というべきか、全体的に劣等感との闘いだったという気もする。詳しくは書かない。けれども何度、後悔した事か。何度、自分の馬鹿さを呪った事か知れない。それもただ馬鹿なのではなく、自らの無能さを形作っているのが逃避と怠慢だったという一側面を嫌というほど叩きつけられたのであった。 果たして俺はこの一年で何がしかの進歩を果たしただろうか。全くしていないという訳ではないだろうし、失った物も多かれども得た物も多かったと思いたい。そうでもしないとあまりに暗すぎるかもしれない。 もっとも、一度「外」に出た人間となってしまったからには、いつまでも「内」の安らかな倫理と秩序に囚われている訳にはいかない。物理的にはもちろんの事、精神の上でも本格的な脱皮を行うべきだ。あるいは孵化とも呼ぶべきか。居心地の良い卵は、そろそろ殻を破らねばならないのである。 しかし、まあ、つまる所。 良くも悪くも「外」の世界を知ったのは大きな刺激だったと言わざるを得ない。 地元じゃ絶対に有り得ない人波の中を歩きもしたし、今まで読む機会の無かった本も読めたし、反吐が出そうなほど大嫌いな人間という存在に人生で初めて遭遇したりもした。 今の専門学校に入学してから「友人」と呼べる人間が誰一人として出来ていないのだが、それすらも、あるいは種々の人間観察を行い得る好環境だっだであろう。ただ「溜め込む」だけでは毛頭ダメであって、溜め込んだものをどうやって組み立てて外部に表出するか、という事のほうが重要なのだという事実にも気付かされた一年だった。 こうやって思い返してみると、ただ悶々と苛立ちを募らせていたのも決して無駄では無かったかのような錯覚に陥ってくるから困りもの。自信を持ちすぎれば傲慢になるのだし、慎重が過ぎては臆病になる。何事も中庸でありたいものだけれども、さて、来年は――どうなるか判らない。 しかし唯一つ確実だと思われる推測は、きっと来年の今頃もまた、奇妙な寂寥と不安に俺は駆られているのであろう……という事なのである。 「いまは自分には、幸福も不幸もありません。」 「ただ、一さいは過ぎて行きます。」…… ………。 …………。 太宰治「人間失格」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.31 17:27:04
コメント(0) | コメントを書く
[日常の出来事] カテゴリの最新記事
|