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カテゴリ:読書
ジョルジュ・バタイユ「エロティシズム」(酒井健訳・ちくま学芸文庫)読了。
「禁止」を課すことが共同体にとっては必要だが、人間はその深奥に抑えがたい暴力衝動を秘めており、何らかの形で「侵犯」する事が必要となってくる。侵犯の形態において性的な行為と死は様相を同じくしており、人間は生と死を同時に求めるという矛盾した心理を有している。そして、キリスト教における神に対しては、自己を滅却して=(概念的な形で?)死んで神との連続性を求めるという事が、史上の神秘体験の中にはあったのである。神に対しての自己の不連続性の破壊とは、死と同時に神と結合する欲求を満たすという、やはり生と死の同時の希求が在ったのだ。 感想めいたものが書けそうにないので、とりあえず印象深い箇所を引用するに留めておく。 人間の精神は、きわめて驚くべき禁止命令にさらされている。人間が人間自身を絶えず恐れているから、そうなるのだ。人間は人間の性の衝動に脅えているのである。聖女は、恐怖に駆られて好色漢から遠ざかる。好色漢の恥ずべき情念と聖女自身の情念が同一であることを、聖女は知らずにいる。(p9) 根本においてキリスト教は、もはや何ごとにも煩わされないという愛の可能性に自らを開かんと欲していた。――中略――侵犯の原初の運動は、キリスト教においてこのように、暴力の反対物に特化した暴力〔規則化された暴力〕を乗り越えるというヴィジョンの方へ流れていったのである。(p198) 快楽が侵犯に関係していると私は最初に述べておいた。だが悪は侵犯ではない。悪とは断罪された侵犯のことなのだ。悪とは、正確には罪のことなのだ。(p215) 極度の貧困は、人々を禁止から解き放つ。だがこの解放は、侵犯による解放とは違う。一種の、おそらくは不完全な低劣化が動物的な衝動を自由に発露させているのだ。(p231) 《動物性》、あるいは性の横溢は私たちの内部において、私たちが物に還元されえないようにしているものである。 《人間性》は逆に、労働の時間におけるその特有な面からすると、性の横溢を犠牲にして、私たちを物にしてしまう傾向を持つ。(p268) サドの理論はエロティシズムの破滅的な形態である。道徳上の孤立は制約の解除を意味している。つまり、この孤立は消費の深い意味を伝えているのだ。逆に、他者の価値を認める者は必然的に自分を制約することになる。他者を尊敬することによって、人は、精神的あるいは物質的な財を増やそうとする欲望び支配されることのない唯一の渇望の範囲を測ることができなくなるのだ。(p289) “神的なもの”の暴力的で有害な面は、一般的には供儀の儀式のなかで明瞭になっていた。しばしばこの儀式は極端な残酷さを呈することがあった。――中略――このような残虐行為の追及は稀であったし、供儀に必要不可欠であったわけでもなかったが、しかし供儀の意味を示してはいた。イエスの十字架刑でさえも、盲目的にではあるが、キリスト教の意識をこの神的な次元の恐ろしい性格に関連づけている。神的なものは、その第一の原則たる焼き尽くし破壊する必要性が満たされたあとはじめて、守護神的になるのである。(p307) すなわち贈与とは、それ自体、断念だということである。贈与は、動物的な享楽、直接的で留保なしの享楽の禁止なのだ。結婚とは、配偶者たちの行為というよりは、女を《贈与する者》の行為なのである。すなわちこの女(自分の娘なり姉妹)を自由に享楽することもできたのに、そうせずにこの女を贈与する男(父親もしくは兄弟)の行為なのである。彼がおこなう贈与はおそらく性的な行為の代替行為であり、いずれにせよ豊穣な贈与はそれ自体の意味、つまり資源の消尽という意味に近い意味を持っている。(p371~372) 誘惑を受けているさなかに修道士の心に取りついて離れずにいるものは、まさしく“彼が恐れていた”ものにほかならない。死によって自分と決別したいという欲望のなかでこそ、神的な生への彼の希求は表明される。(p392) 生は、増加に向かって進む限りにおいてのみ、過剰なエネルギーの消尽に身をゆだねるのだ。 (p394) テッソン神父の言葉を借りれば、“神的な生”は、これを見出したいと思う人が“死ぬ”ことを求めている。(p397) 興奮の本質的な一要素は、足場を踏みはずして転覆するという感覚であることは誰も否定できないだろう。性愛は、私たちの内部では“死のように”存在する。それは、すぐに悲劇へ滑ってゆき死においてのみ止まる急速な喪失の運動なのだ。(p407) 私たちにとって何よりも重要なことは、性的な行為を社会機構の根底に位置づけることである。奥深い性活動の上に、つまり無秩序の上に文明化された秩序を築くことではなく、この無秩序を秩序の意義に結びつけて、無秩序の意義を秩序の意義と合体させて――私たちは無秩序を秩序に従属させようとしているのだ――無秩序を制限することが重要なのだ。しかし、結局のところ、このような操作は長続きしない。というのも、エロティシズムがその至高の価値を放棄することは決して起きないからだ。(p410) 肉欲は、原則として、愚弄とごまかしの領域である。足場を踏みはずしたい、しかし倒れることなしに、というのが肉欲の本質なのだ。これは欺瞞なしには進まない。私たちはこの欺瞞の盲目的な張本人であるし、また同時に犠牲者にもなっている。(p415~416) 喜びは、まさしく死への展望のなかに見出されるだろう(つまり喜びは、その反対物すなわち悲しみの様相のもとに隠されているのだ)。 (p458~459) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.01.12 23:22:20
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