826430 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

tartaros  ―タルタロス―

tartaros  ―タルタロス―

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

こうず2608

こうず2608

Favorite Blog

9月も終わりですね。 New! saruninkoさん

Japanisch Ahnener… バルザーヤさん
DESTINY アルト・アイゼンさん
あの三島由紀夫・大… sh3042さん
ごった煮底辺生活記(… negibonさん

Comments

正体は狐ですなぁ~w@ Re:「仏陀再誕」を観てきたぞ(^q^)/ (※ネタバレ全開)(11/25) 個人的には荒井よりも覚念のほうがヤバイ…
村石太マン@ 宗教研究会(名前検討中 哲学的 心理学的 文章ですね。文系 理…
村石太マン@ 宗教研究会(名前検討中 村石太仮面 で 検索中です 一般の新聞は…
村石太仮面@ アルジェリアと フランス~ フランスの核ミサイル フランス カルト で 検索中です なぜ …
村石太仮面@ アルジェリアと フランス~ フランスの核ミサイル フランス カルト で 検索中です なぜ …

Freepage List

2009.01.19
XML
カテゴリ:読書
英紙カメラマンを殴打=香港でジンバブエ大統領夫人

さすが、ジンバブエは大統領夫人からしてレベルが違う(笑)






 夢野久作「犬神博士」(角川文庫)を読了。

 夢野作品を全て読んだ訳ではないのだが、誤解を恐れずに言うのなら、何だか夢野の諸作品の中ではかなり異色の感を一読して受ける。
 新聞の連載小説だった事も大きいんだろうけど、まず不気味でもグロテスクでもない。一般に、「夢野久作」という小説家からイメージされる作風は幻想・怪奇・猟奇・神秘あたりだと俺は勝手に思っているのだが、本書は大道芸人の少年・チイを主人公とした痛快な物語といったもの。夢野の作風の特徴の一つとして、土俗的な要素が強い事が挙げられる。主に九州を舞台とした(九州出身だから?)作品群が多いが、「犬神博士」もまたそうした土俗の空気に満ちている。物語の舞台はやはり北九州。「キチガイ博士」「犬神博士」などと仇名される「大神二瓶」氏が新聞記者に自らの少年時代を語る――という、夢野久作お得意の独白体小説だ。つまり、「大神二瓶」と「チイ」は同一人物である。
 この長篇作品における土俗の空気とは、つまり主人公自身がそのような土壌から発生しているという事でもある。チイ(=大神)は大道芸人であり、本当の親かも判らぬ一組の男女と諸国を巡り歩いて芸を見せては日銭を稼いでいる。定住しない、いわば漂泊民に属する人物であり、劇中では「サンカ」とも呼ばれている。この、いわば物語の舞台となっている近代日本の空気の中からただ一存在だけ「取りこぼされた」チイたちの姿は、ある種の異様さをもって印象づけられる。金を稼ぐために猥褻な踊りをやったカドで逮捕されてしまうのも、木賃宿でイカサマ博打に巻き込まれてしまうのも、定住したごく普通の人々とは明らかに違った漂泊としての性質を持った局外者の姿に他ならない。そのような「取りこぼされた」人の内部からの視点で描かれているのが「犬神博士」という小説なのである。
 たとえば、同じ夢野作品の中でも「笑う唖女」などは気が狂っている故に村落共同体において半所属・半逸脱の狂女が登場するが、その姿は、いわば外部からその「異人」性を観察したものである。そして、「異人」と交渉を持ったために自らもまた「異人」の空気に取り込まれることを恐れる男が主人公なのである。この事は、なにも「嗤う唖女」のみに言えることではなく、どこかしらに「異人」性を持った人物の存在・登場は他の夢野作品にも共通している。著者、畢生の大作たる「ドグラ・マグラ」もそうだ。狂気なるものは客観的観察によって容易に「異人」性の付与に貢献することになるのであり、それら諸作品に「異人」性と同居しているのがこの「客観」性なのである。つまり、他作品においては「異人」性の外側に位置する人々が「客観」性をもって観察した結果としての「異人」の存在を認識している、という気色を感じる訳である。
 けれども「犬神博士」の場合、チイ自身が漂泊民である事と、さらには「子供」という二重の「異人」性を獲得している。他者が覗き見た「客観」性ゆえの視点ではなく、自らがそうした世界に属しているが故の内側の視点に沿った物語が展開されているのだ。物語は全編が犬神博士ことチイの主観で進行するのだが、それは漂泊民であるが故の非定住の生活と、大人の世界の倫理を第三者的な観点から批評する子供特有の思考の融合なのだ。この全編に渡る局外者的視点にこそ、「犬神博士」を異質たらしめている要素の一つが内在している。本作を読むのはある程度の大人であり、その時点で既に子供の視点を失っているのである。そうした読者が最後まで子供の視点と認識で描かれる本作に痛快さを覚えると言う事は、つまり自らにとっての失われた「異人」の世界を再び垣間見る事への憧憬のようなものだ。社会にも大人の世界にも帰属しないチイの姿を見つめることで、「客観」性を排した「主観」性の強いカタルシスを得る事になるのではないだろうか。独白体の形式を採っている以上、ときどき「大神二瓶」が現在=大人の視点からチイの行動を批評することがある。だが彼もまた今だ局外者的外部存在であり、言うなれば、チイ=大神二瓶はどちらの領域にも属しない中間的存在なのである。
 この物理的とともに中間を漂泊するチイの存在は、その性別としての要素にも表れている。彼は少女の格好をした、女と見紛う美少年であると設定されているのである。いわば、少年の肉体に少女の容姿を載せた両性具有者、アンドロギュノスだ。稲垣足穂は「少年愛の美学」中、「女性の美は美少年の美から生まれる」旨の事を記していたが、まさしく少年の容姿を基調とした女性的美貌がチイの肉体には存在している。この両義的属性の所有者であるチイは、突飛とも思える行動によってある時は侠客を恐れさせ、ある時は政治家に神様と崇められもする。いずれ通底するのはやはり漂泊する子供の思考と、どの領域にも完全に帰属することの無い両義性であり、「異人」性に他ならない。
 本作はある意味で非常に尻切れトンボというか、中途半端と読める結末を迎える。チイが関わった出来事の収拾の次第も不明だし、「チイ」という美少年がその後どのような人生を歩んで「大神二瓶」となり「犬神博士」となったのかも明らかにはされない。どこまでも漂泊し、彷徨い、どこ行き着く事も無い。恐らくは、このフラフラと漂う浮遊感めいた感覚さえをも含めてチイは漂泊し続けるのである。帰着することの無い感慨と、一点に収斂される事も無くただ薄まり行き果てはかすかな余韻を残す痛快さと共に。
 どのような地平にも決して行き着くことの無い「異人」性。それこそが、「犬神博士」を支える柱なのだと思う。
 





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2009.01.19 23:31:19
コメント(0) | コメントを書く
[読書] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X