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カテゴリ:日常の出来事
ここ数日ずっと部屋に引き篭もって読書しかしてなかったので、久しぶりに外に出てみた。と言っても、やっぱり行く先は書店なんだけど。
ゴーゴリ「外套・鼻」(岩波文庫)、アントニオ・グラムシ「新編 現代の君主」(ちくま学芸文庫)を買ってきた。 帰りに駅前を歩いていたら、緑色のブレザーにベレー帽を被った男女が何やらチラシを配っていた。 どことなく見覚えがあったので、何だべがと思って受け取ってみると、案の定、崇×真光の皆さんの布教活動でした。 思うのだが、創×学会といい幸×の科学といい、なぜ新興宗教の掲げるスローガン的な物はやたらとテンションが高いのだろうか。 梅の花が咲いていた。という事は春の訪れだ。もうすぐ桜も近かろう。 去年はいろいろと忙しかったので無理だったが、今年は桜が咲いている場所をブラブラと好き勝手に歩き回ってみたい。 咲き誇る満開の桜は、いずれ散り逝く死の道程の半ばでもある。西行法師は「願わくば/花の下にて/春死なん/その如月の/望月のころ」と詠んだが、「桜」という樹に対して絶頂に達した生と、無残に消滅して死する運命という両面を、昔から日本人は感じ取って来たのかもしれない。 最も盛んな状態に達した存在は、いずれ衰えて滅びてゆく。春という短い季節の中によくその万物が逃れ難い宿命を体現する桜は、なるほど美しさと同時に残酷さを湛えてもいるのだと思う。生の裏面には横溢する死がいつでも隠れているのであって、梶井基次郎が「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と、美の暗部に内在する醜を描き出して見せたのも今ならば納得がいきそうだ。 爾来、桜がその根でドロドロに腐り果てた死体を喰って可憐な花を咲かせているように、生の希求とは死の想念の上に成り立つ感情なのだ。生きるとは、それ自体が残酷な行為であり、常に無数の死骸の上を我々はそれと気づかずに歩いているのに違いない。 そうして、それに気が付いた時、人間は言い知れぬ孤独に襲われるのだろう。咲き誇る生が隠された死の土台の上に在るという事実を知って、いずれ自分も迎える気も狂わんばかりの消滅を感じ取って……その後でようやく、「花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくる」。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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