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カテゴリ:与太話
もう三月も末だというのに雪が降ってた……何だこれは。
キャラクター産業というのは非常にボロい商売だよなあ、と最近思った。 だって、人気のあるキャラクターの絵を印刷しただけで、機能的・性能的には普通の商品と大して変わらないモノが少しくらい高くてもバカ売れするんですよ! あきたこまちの袋に西又葵がイラストを描いただけでお米が完売ですよ! しかしそれにしても不思議ではある。なぜ人は「キャラクター」という要素にそこまで重きを置くのだろう。 例えば映画のDVDを買う時、我々は「記録媒体としての機能を持つ円形の板きれ」に金を払うのではなく、その中に記録されている「映画」という情報(コンテンツ)を買っている。キャラクター商品もこれと同じようなもので、決してその「道具」自体に対する興味ではなく「キャラクター」という外装の部分に対して金を払っているという解釈が容易に成り立つ。 この「キャラクター」という要素は、ただ単にデザインとか色合いとか、そうした通常の商品を購入する際にも検討される要素とは若干ながら趣きが違うというような気もする。前提として、まず消費者がその「キャラクター」に対する愛着を抱いていなければならないのは言うまでも無いが、その「キャラクター」が「キャラクター」として成立する手段というのは、必ずしも対象が創作された作品世界の住人でなくとも構わないのではないだろうか。ちょっと考えてみて欲しいのだが、芸能人に関連した――とりわけアイドル的な側面を持つ人たち――グッズというものも、立派なキャラクター産業だ。そして、我々がその芸能人を知るのはマスメディアというフィルターを通してファンを楽しませるために製造された一つの結果を観賞しているのである。 つまり、テレビや雑誌なんかで日々活躍する芸能人はその本心はどうあれ、観賞者向けに造られた一個の「キャラクター」として振る舞っている。視聴者は芸能人という「人間」ではなくファン向けに造られた「キャラクター」性に声援を送っているのだ。その様相は、本質的に子供がヒーロー番組を楽しむのと、あるいはオタクがアニメを観たりして楽しむのと何らも変わらないと思う。 ともあれ、いずれにせよ「キャラクター」を享受して楽しむ側には「俺の好きなキャラ、かくあるべし」「こうなのだ」という理想像がいつしか出来あがっていく。ここまで来れば提供者の方は楽だ。あとはその「キャラクター」を利用して二次的な商売を始めれば良い。よっぽどボッタクり臭ェ事をやらかしたりしない限りはファンから大いに許容されるに違いない。そして、商品の外装に「キャラクター」が搭載される。それは、ファンが多年にわたって慣れ親しんだキャラクターの断片である。その断片を保持する事は何よりも歓喜に満ちた行為である(時間がたって熱が冷めたりしない限りはw) 不思議な話だが、人間は何でもない物に対して特別な意味付けをしたがる生き物のようだ。藁を束ねて作った粗末な人形が、憎い相手を呪い殺すための呪具になったりする。あるいは今日における雛祭りの原型になったように、同じく藁人形に対して厄を移して川に流すという役目を期待したりする。 ある「何か」をして「キャラクター」性を付与するという事は、他との差別化を強調できる明確な特徴が存在しているという側面があるのではないだろうか。日本の宗教文化は多神教であるが、これは「八百万の神々」などと呼ばれるように、有名無名の神様を全部考えると異常なまでに大量の神様がこの島国には存在している事になるという。天照大神といった誰でも知っている超有名な神格から、「遠野物語」に登場するオシラサマ、 異常なまでに細分化しまくっている無数の神様は、しかし、いずれも他とは違った何らかの権能といったものを有していたハズである。そして、その権能から現世利益を得るためのお守りだとかのアイテムは所持する者が信仰する事によって、その精神を安んじさせる事が可能である。 もしかしたら、この「信仰」という点こそは商品の「キャラクター」性をありがたがる事と何らかの共通性があるのではないだろうか? もちろん「キャラクター」のファンはその「キャラクター」を神様として崇拝している訳ではないが、何らかの物体に対してその「キャラクター」性が強い関与を行った形跡が確認されると、それはもはや単なる「商品」ではなく「キャラクター」性という強烈な個性によって、所持する者の精神を幸福ならしめる摩訶不思議なアイテムと化すのである。 もし仮にそれぞれ事なった権能を有する神様の、その「権能」を、他との差別化を可能とする一種の「キャラクター」性であると解するならば、神様という強烈極まりない個性による介入を受けたアイテムは神様の御意志を地上に媒介する特別の存在となる。「キャラクター」性による明確な差別化が図られた存在によって祝福されたアイテムは、ヨソ様で流通している凡百のつまらぬアイテムと比べれば非常に高い価値を持つようになるのだ。 神様の権能を地上に表すためのアイテムへの憧憬とはつまり、それ自体に価値を認めるのではなく、それを媒介して顕現する神的存在への憧憬とイコールであろう。 同じように、何かのキャラクターによって飾られたアイテムへの萌えは、アイテムそのものではなく、アイテムを通して幸福感を喚起させてくれるキャラクターへの萌えに他ならないのである。 すなわち「信仰」という概念を今日的な「キャラクター」に転化させて考えてみると、信仰も「キャラクター」への愛も、ともに自身が幸福へ導かれたいという最終的帰結点を目指したものである。関連するアイテムの所有およびそれを媒介する精神的営みによって得られる幸福においては、両者は軌を一にしていると言えそうである。 追記 “一つの神様に対して他とは違う一つの特徴”というのが「キャラクター」性獲得の条件だと仮定すると、ユダヤ・キリスト教のような一神教にはそういった感覚は発生しない事になる。ヤハウェは全知全能にして唯一無二の存在なのだから。 が、実際は天使や諸聖人・そのほか民間信仰の存在が、神様が持ちえない「キャラクター」性の代行を行っていると考えることもできるかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.25 22:55:51
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