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カテゴリ:日常の出来事
いよいよ明日はS社の一次面接だっぜー。
が、不安で仕方がない。普段やらない非日常的行為の渦中に身を置いているからこそ、日常的行為によって精神の安定を図るべきだとは思う。が、肝心の日常的行為(たとえば読書)をするにしても、やればやっただけ後日の対策に使うべき時間をその分ムダに浪費しているような感覚に陥ってしまう。 面接の練習はやれるだけやったのだし、もうどう焦っても明日の午前11:30から処刑台の階段を上るという事実は揺るがないのだけれど。 案外、死刑囚の気持ちってこんな感じなのかもしれないとか考えてみる。 という訳で、明日への貴重な時間を浪費してプリーモ・レーヴィ「天使の蝶」(関口英子訳・光文社古典新訳文庫)読了。 著者はイタリアで最も権威ある文学賞であるストレーガ賞受賞作家らしい。たぶん、我が国で言うところの芥川賞的なものなんだろう。 中身の方は短編集で、著者の職業柄(化学者)か、表題作も含めSF的な色彩が強い。 人間という生物の定義・枠型を揺さぶるような話が多いと思った。 とりわけ印象深かったのは戯曲「創世記 第六日」である。タイトルを見れば解るとおり、旧約聖書の創世記を翻案した話だ。多神教の神々がモデルと思しき者たちが、種々の役人や科学者に擬せられて会議を開いている。今度、新しく地上に造る事になった「ヒト」という生き物を果たしてどういった姿にするかという議題で大揉めに揉めているのである。 物語の結末をここでバラすつもりはない。が、人間が人間として自らに向けた解釈は、それは始めから我々が「ヒト」としての姿に慣れ切っているからこそ成り立つものなのかもしれない。学術的な意味での人間の定義とは様々なものがあるようだが、もし人間が今と違った姿に進化していたとしたら、その時はまるっきり別の定義が生まれているはずだ。 そうなると、途端に我々が普段「人間」と呼んでいる生き物は非常に胡散臭くなってくる。ヒトがヒトとして現在の姿で在るのは全くもって偶然の産物であり、その偶然をさも当然のように扱うのは非常に愚かな思考である。例えば「ジョニーは戦場へ行った」の主人公や、「史記」に残されている高祖・劉邦の愛妾のエピソードのように、四肢や目鼻などの感覚器官を失って生ける肉塊となった者は最早ヒトではないのか。先天的な奇形とされる者はヒトとして生まれたとは言えないのか。 人間が人間として自分たちを認識するという事は、実は幸運に助けられる事で初めて成功した非常な困難の伴う行為だったのである。 そして表題作「天使の蝶」は、人間は自らの意思で人間を逸脱する可能性さえ提示している。もし本当にそうなった時は、我々はかつて身にまとっていた古い意味での「人間」を脱ぎ捨て、新しい「人間」に袖を通すことになる。その恐るべき(作品を一読した限りではそうした印象を受けた)変化を拒絶できるかどうか。 それもまた現在の人間を定義づける理性めいたものにかかっていると言えるのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.04.02 21:58:08
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