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こうず2608

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2009.04.16
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カテゴリ:読書
 昼に学食でラーメンを食べました。醤油味でした。
 寮の夕食でラーメンが出ました。醤油味でしたorz

 実家に居た頃は、昼と夜で飯の献立が少しくらい被ってもほとんど気にならなかったんだが、離れてからはやたらに気にかかるな……。






蜂巣敦・文/山本真人・写真「殺人現場を歩く」(ちくま文庫)読了。


「殺し」という行為――それ自体は単なる生が死に転換される現象に過ぎない。

 人間が生活する上で現象を現象としてそのまま解釈する事には非常な危険が伴うはずである。つまり、そこでまともな社会生活を営まんとする者たちは現象に対する意義づけを行わなければならない。子供はもともと、人間としての原初的な暴力衝動を持っている。例えば何の意味も無く虫けらを潰したり、小動物を虐めてしまったりするような。それは子供が子供だからこそ起こり得る純粋性の強い行動である。ただ暴力を暴力として発現させる、根底に何の目的も無い暴力だけを目的とした行動である。
 だが、こうした行動の許容は人間の寄り集まりたる社会という代物においては頗る厄介事であると言わざるを得ない。何故ならば、皆が持つ暴力への志向を無制限に許し続けるならば、いずれ互いの殺しが頻発して共同体それ自体の瓦解という最悪の結末へと陥りかねないからである。そして、暴力の行使に対しては何らかの目的が必要とされるようになる。それが社会全体の利益にかなう場合であっても、その逆であっても。このうえ社会存続のための暴力行使に関して明確な基準を設けた社会は、すなわち反社会的な形で発生する暴力そのものを忌避するようになっていく。つまり、暴力行使における最も破壊的な姿である「殺人」の忌避である。

 殺人の忌避、および明確な形での規制が行われている空間にとって、「殺人が行われてはならない」という倫理が「日常」化しているのであり、つまり殺人によって人が死なないという状況もまた「日常」である。であるから、殺人によって人死にが出るような状況とは限りなく「非日常」的と言わざるを得ない。この場合の「非日常」とは「日常」における道徳・倫理が正反対に転倒してしまった、まさに異界だ。かつて祝祭としての意味合いを持つ儀式においては、「日常」的に禁じられている行為が祝祭的空間でのみ許される事があった。例えば人身御供であり、自己への去勢であり、また変わった所を挙げるならば主従の立場の逆転であろう。いずれも日常では絶対に起こり得ない。特異な現象であって、祝祭という意義を持った「非日常」的空間ではそれらは合法化され、許容の対象となる。
 しかし、大分の「日常」において個人の意思によってごく限定的な「非日常」の現出を生ぜしめた場合、それは非常に限定的な意味合いで異界の発生を促している事になる。殺人という「非日常」は、祝祭ではない「日常」の中にあってはひときわ暗い装いを持っている道徳観念の転換現象である。殺人の禁止という「日常」の住人であるにもかかわらず、自ら「非日常」を造り出してしまったのだ。

 かつて殺人現場となった場所というのは、二つのタイプがあるように見受けられる。一つは個人空間としての現場。もう一つは公共空間としての現場である。前者の場合、ある個人あるいはその個人に付随する数人が優先的に占有する権利を持つ、いわばプライベートの空間である。後者は常に不特定多数の人々が行き交う、パブリックな空間である。同じ殺人なる「非日常」が発生しても、この二者ではその後の存在に対して決定的な影響力の違いがあるように思われる。
 前提として、ある空間において殺人という「非日常」的現象が発生すると、過去の事実がその空間を修飾し、殺人現場という定義の誕生を見るという点が挙げられる。個人空間の場合、その場を占有する誰かが犯人によって抹殺されると元が他者の入り込めない限定的な空間であったために、より強い形で過去の事件の記憶を留め易いのではないだろうか。つまり、その地の住人はすでにこの世の人ではなく、「日常」が跡形も無く失われ、殺人という瘴気に満ちているが故に形式的にはどうあれ根本では誰も所有しきれない、過去に縛り付けられた「非日常」の残滓という絶対性が獲得されてしまうのである。反対に公共空間の場合、不特定多数の人々が様々な思いを抱きつつ日々歩き回っている場所である。そのような空間では足を踏み入れたいかなる者も流動的であり、優先的な占有者となる事が出来ない。言うなれば数限りない人々の「日常」によって常に満たされた状態では、仮に凄惨な殺人という「非日常」が発生しても新たに流入する「日常」の洪水に飲まれてその形跡を留め難いと言えるのである。
 別の表現を使うならば、殺人というケースにおける「日常」とは「生」であり「非日常」とは「死」に他ならない。それは言うまでも無かろう。敷衍して考えるならば、「生」の馥郁たる香りに満たされた空間と「死」の不快な臭気を放つ空間では、後者の方がより人々の印象に残り易いはずなのである。

 ただ、いずれの空間にも共通している点が確かに存在する。
 それは、「境界」の欠如だ。

 「境界」という観念は、「日常」と「非日常」を明確に分かつものであった。そして、境界線上に在る状態は善いモノと悪いモノが重なり合っていて、普段より悪いモノと出くわす危険が高まる恐ろしい状態である。つまり、黄昏時(逢魔が時)、彼誰時、集落の出入り口、踏切、家の玄関、橋の上……というように。
 そうした解り易く可視化された「境界」を、我々人間は認識する事ができる。安全な内と危険な外を区別し、警戒するのだ。それは取りも直さず外界に渦巻く「非日常」の回避という側面が強くはたらいていたであろう事が想像に難くない。
 けれども、殺人は原則的に現象であり、可視化された境界によって隔てられるものでは決してない。「ここから出なければ安全」という性質のものではない。殺人という災難は、越境者にも非越境者にも等しく襲いかかって来る危険を常に孕んでいる。つまり――殺人という「非日常」による空間の再定義現象は、全ての人・全ての空間に等しく発生し得る、回避不可能の危険に他ならない。
 

 殺人事件は、被害者と加害者、その周囲の人間にとっての不条理であり、非日常である。事件の社会的な処理は、捜査関係者と裁判所の人間によって行われる。事件の概要は、大手マスコミが伝えるだろう。しかし、それは外の人間にとって、事件との関係性は「部外者」としてある。
 だからといって、いまは部外者であっても、突発的に発生した事件に巻き込まれる可能性から、特権的に除外されているわけではない。一般の人間は当事者でありながら、“もしも”の可能性を絶えず抱き続ける「当事者」でもあるのだ。
(p8~9)


 常に「生」「日常」に満たされた空間であっても、いつそこに殺人者が「死」「非日常」を持ち込まないとも限らない。安全でいられる保証など元よりゼロなのである。だというのに「日常」に住まう我々は、自分たちの安寧が破壊される恐れというものを露ほども思案せずに安穏とした日々を過ごしている。自分かあるいは自分に近しい者の身に危険が降りかからない限り、強固な「日常」性は「非日常」性を締め出し、隠蔽し、押し込めてしまう。まるで「日常」そのものが「非日常」に対する防波堤と言わんばかりに。
 望月峯太郎の漫画「座敷女」では、正体不明の女ストーカーに付き纏われて殺されるという「非日常」の犠牲になった主人公は、市民たちの間で連綿と続く「日常」に飲まれ、悲惨な死など一顧だにされずにただの噂話の登場人物としての、最終的な役割を与えられるに過ぎなかった。我々はこの市民たちを空想の産物として片付ける事はできないはずだ。終わりなき強固な「日常」を生きる我々は、常に世界は「生」に満ちた安全な場所と思っている。だがそれは単なる勘違いであり、向こうの見えない、それでいて薄い膜をひとたび引っぺがすと、数え切れないほどの「非日常」の中に累々たる「死」がその顔を覗かせ、恨めし気な眼をこちらに向けているのである。

 かつて大きな建物や橋を建設する際には、基礎の部分に生贄として人柱を埋めたという話は有名だ。我々は「日常」を歩くうえで、もしかしたら「非日常」を知らず知らずに踏みつけにしていないと……そして、自分自身もまた「非日常」を造り出す役者の一人になってしまわないと……誰が言えるというのだろう?






 言うなれば、「生」の香りに満ちた場所は「死」に基づく負の要素を発現させ難い。けれど、「生」が何らかの原因で失われて空っぽになってしまった場所には「死」の腐臭が湧き易い。つまりは抑えつけるための蓋が外れてしまったのだ。臭いモノに蓋という諺を、我々はその「日常」の中で無意識のうちに実践しているという事。そこが殺人現場であったとか、病院であったとか――そういう実質的な「死」の記憶あるいは記録の残る場所ではナオサラ。




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Last updated  2009.04.16 23:02:34
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