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カテゴリ:読書
さすがに今のクラスになってから一年以上も経つと、初めは何にも喋んなかった連中とも打ち解けて来る。何人かの人間と話してて気が付いたのだけれども、同じ「向こうから話しかけて来る」人種でも、その中にはやはり幾つかの相違が見られると思うのである。
だいたい、「話し手にとって興味のある話題のみを提供したがるタイプ」と、「受け手の様子を探って話題を模索していくタイプ」の二つに分かれているようだ。 前者の場合、例えばあるゲーム等に関するそれを知らない人にとってはあまり面白みが無いのではないかと思える特殊な事例による話題を提供することが多いが、後者の場合はある程度、誰に対しても使える汎用的・普遍的な話題から始めることが多いように見受けられる。 おそらく、真にコミュニケーション能力があると見做され得るのは後者なのだろう。 自分の話したい話題だけを提供し続けているようでは、相手から良い印象は得にくいのではないだろうか。「積極的に話しかける」≠「コミュ能力に富む」だということがよく解る。 もっとも、俺自身はここに挙げた二つのタイプのうちでは、どう考えても前者に属する人間なのだけれども。 米本和広「カルトの子 心を盗まれた家族」(文春文庫)という本を読んでいる。 カルト宗教に関わった親を持つ子供たちの姿を取材したルポルタージュである。 一番最初に紹介されているのが「超人類の子」。かの悪名高きオウム真理教信者の子に関するテキスト。 本文によれば、警察の手によってサティアンなる教団施設から救出されて各地の児童相談所に預けられた年少信者たちは、ずっとオウム一色の世界の中で生きてきたために、世間並の知識や常識をほとんど見に付けてはいなかったらしい。ケースの中に入った人形を見ては「監禁されている!」と叫び、飛行機雲を眺めて「毒ガス攻撃だ!」とおびえる。入浴や散髪の習慣も始めは受け入れようとはしなかったし、三度の食事やおやつを美味そうに食べていながら「オウムの食事の方が美味しかった」とこぼす。 本文中では“まるで野生児のようだった”という表現が使用されているのだが、現代的な社会空間・家庭空間から隔絶され、ずっとカルト宗教という閉鎖的なコミュニティの中で生活していれば、まだ精神の基礎の固まっていない子供たちが(我々の目から見て)おかしくなってしまうのは当然と言える。人間は何らの教育も施されていない状態では獣も同然であり、それを人間世界に溶け込ますにはその文化に則した教育が必要であるはずだ。 然るにカルトなる場所にあっては、その集団を至上とする思想のみが叩き込まれ、人間を人間たらしめる教育が行われない。あるテキストによれば、カルト集団における特徴の一つは、内部の価値観を絶対視し、外部からの意見を受け付けないという点にあるそうだ。徹底した排斥と内部価値観の絶対視が、幼い精神に対して強烈な歪みを生じさせたであろうことは想像に難くない。そして、社会文化に反する教育ともいえないものしか施されていなかったのであろう子供たちは、その柔軟な精神に擦り込まれたカルト的・反社会的な瑕疵ゆえに野生児であったのだ。 この章を読んでいてふと思い出したのだが、かつて俺の小学3年の頃の担任教師であるF先生が、「サティアンから救出された子供の世話をしたことがある」と語っていた。曰く、その子供はオウムという集団の外の世界をほとんど知らずに育ったので、食事にとろろご飯が出た際、食べ方が解らなかった。そのため先生が教えてやらなければならなかったらしい。このエピソードの真偽のほどは定かではないが、まるで外の世界を知らずに育ったオウムの子供たちの、我々から見れば非常識的といえるであろう行動の数々を見れば、「さもありなん」と思わせる一片のものがあるようにも、考えてしまう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.06.22 23:12:35
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