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カテゴリ:小説紛い
もともと輝夜が地上に下ることになった一件からして、かつての鈴仙には理解が及ばなかったのだ。
どうも輝夜が不老にして不死という特性を手に入れたことに関連しているらしいが、それ以上に深くは知らない。 かつて鈴仙が月世界の軍隊に属していた頃、兵士たちの間では大きなものから小さなものまで、噂話が取り交わされていた。言葉を話せる者が複数集まれば、真偽のほどはともかくとして互いが持つ情報を交換したがるもの。まして軍隊という閉鎖的で、所属者同士の間で否が応にも強い連帯意識が生じる疑似社会的環境ならばなおさらである。いつか襲ってくるだろう死の不安から逃れるために、彼女たち――月の軍隊はみな鈴仙のような月兎の少女で構成されているのだ――は恐怖を軽減して視点を他に逸らすべく、虚しくも楽しい言葉遊びを繰り返していたのかもしれない。 ともかくも、そこで交わされる噂話は、大半が下世話だったり他愛もなかったりする可愛らしいものに過ぎなかった。 例えば――誰が誰と付き合っているとか別れたとか。 例えば――ある部隊の宿舎で、先輩からのイジメに耐えかねた兵士が首を吊って死んだとか。 例えば――実は誰はもう“経験済み”だけど、相手はちょっと、もう、考えられないほどに不細工なのだとか。 大半はそういった、真偽とは無縁の面白ければ全てが許容される類のものである。これが実話で、近くで本人が聞いていたら悲惨以上の悲惨としか言いようが無い。けれどもそれらは単なる噂でしか有り得ない。根拠や情報の出所という大地から遊離した言葉の群れは、ただ風に流されるままに口から口へと移り渡る。枷の束縛からは始めから解き放たれている。そこに秩序などあるはずもなく、彼女たちの不安が大きければ大きいほど、現実から逃げたければ逃げたいほど、噂はより面白く脚色されて拡大していった。 だが。 ある時には、ふと、もっと規模が大きくていたずらに恐怖心ばかりを煽る話が出回ることもあった。ある年の冬には月に巨大隕石が落下して全生命が滅亡するという噂が流行った。その前年には月面の海が干上がって月世界は死の荒野に変貌するという話が跋扈した。そのさらに前年、急速に文明を発達させた地上人たちがもうすぐ月に攻め込んでくる、こうしている間にも奴らは月の様子を偵察して侵攻計画立案の最終段階に入っている……そんな話が闊歩した。 鈴仙自身は耳に入るほとんどの噂話を(なにぶん、兎の耳は感度が良いのだから嫌でも情報を入手する羽目になる)馬鹿馬鹿しいと思って心の内では否定していたが、中にたったひとつだけ、心に刻まれて消えない話があった。 ――――「昔、月から地上に送られた流刑囚が居る」 それを教えてくれたのが誰だったか。そちらの方は、鈴仙はとっくの昔に忘れてしまった。たまに思いだそうとしても、厳しかった上官や頼れる先輩、冗談を言い合ったかつての戦友や、訓練中に事故死した哀れな新兵など、記憶にある限りの人々の顔が目蓋の裏にチラついてしまい、これと思う人物を同定できないのだった。 だが、そんなことはどうでも良いのだ。 永遠亭の一員となった今の鈴仙・優曇華院・イナバにとっては、その話の内容だけが最重要なのであるから。 何でも、禁じられている不老不死の妙薬を服用して死ななくなった姫君が、かつて存在したとかしなかったとか。それを罪状として、地上の穢土に転生する流刑を課されたとか。 たったそれだけの微々たる情報が真実だったとは、ましてその核心部分に位置する者の家臣になるなど、この時の鈴仙が予想できたはずはもちろん無い。その確たる二人――切っても切れない共犯関係にある輝夜と永琳こそがこの噂の主人公であるということを、彼女はまだ知らなかった。 ―――――― 「ねえ。今日は月が綺麗よ」 と、縁側に腰を下ろしつつ言う者がある。十代半ばほどの、少女である。 その顔は天空に懸かる見事な満月へと向けられたままに少しも外れることはない。地面に届くか届かぬかという中空でぷらぷらと足を揺らすところは、実に年若く可愛げな少女らしい趣きを発揮しているが、全体としての雰囲気は奇妙に超俗的だ。かつ、見る者の、年齢を勘ぐろうとするような目論見を煙に巻いて上手くごまかしてしまいそうなものがある。容貌は一言で表すなら美貌の二文字が相応しかろう。おそらく、彼女の姿を初めて見た者はその美しさよりも、若いような年老いたような、過去と現在と未来を全て一度に溜め込んいるような不可思議な錯覚に囚われるのであろう。こと彼女自身の背丈を上回らんばかりの長さを誇る見事な髪には、ただ生きて一生を終えるだけの凡人では絶対に再現不可能な深さがある。それが、黒々とした髪の毛をして暗中にあってもなおさらに暗さを見せつけていた。 少女の傍らに、従者らしく少し後ろへと正座している鈴仙には、この主君――蓬莱山輝夜がどのような表情を浮かべているものか、心中で図り難い思いだった。 永琳もそうだが、やはり輝夜も常識では考えられないようなことを言ったり考えたりすることがある。この「月が綺麗」という発言それ自体は何でもない報告のようなものに過ぎないのだろう。しかし、その言葉の裏にどんな危険な妖しみが潜んでいるのか。真意と表情が乖離するなどという状況は、並の人間や妖怪でも簡単に出現させることができる。しかし、輝夜ほどに極端な容貌を持つ者が浮かべた表情と、これもまた心にあるであろう極端な意識との乖離とは、人妖とはだいぶ違いすぎる。それは特別に頭が良い訳でもない彼女では予測できない。だから、 「は、姫様。確かに、今夜は満月ですから……」 と、見たままの場当たり的な返事を返すことしかできない。 「もう。私が言いたいのはそういうことじゃない」 と、輝夜は鈴仙を振り向いた。その顔には笑みがある。良かった、と、彼女は思った。少なくとも顔に現れるくらいに恐ろしいことを考えていた訳ではないからだ。 「と、言いますと?」 「今がその美を一杯に湛える満月。けれども、“それ”は決して“それだけ”で存在している訳ではないと思うわ」 「は、はあ……」 輝夜は目の端に楽しげなものを浮かべて語り出す。面白い話を語る時、人は自然と頬が緩んでしまうものだ。それがどこかから持ち込まれたものであれ、当人が体験したのであれ、それを自分の物にした時の楽しかったことをよく思い出し、相手もまた楽しんでくれることを想像して笑うのだ。然るに輝夜の笑みもまた、そのような歓喜の伝達を旨としていたのであろうか。だが鈴仙にはその心底が読めぬ。読めるはずもない。ただに楽しそうな様子の主君が、逆に彼女は恐ろしかった。イナバ、と、輝夜は鈴仙の名を――“イナバ”というのは輝夜が鈴仙に下賜した名であるから――読んだ。困惑気味の表情を少しだけ持ち直しながら、彼女はどうにか輝夜の顔を見た。二人の視線が交わされると、まるでここが地上でも月でもない、まったくどことも知れないような異界に迷い込んでしまったかのような気がしてくる。すなわち、これもまた輝夜が持つ特質のひとつなのだろうか。 「イナバ。あなたはウスバカゲロウを知っていて?」 「ええ。地上に生息する虫の名前でしたね。確か成虫になってから三日しか生きられない短命な昆虫だとか」 かつて師である永琳より教わった知識と、実際に見聞した記憶とを整合しながら鈴仙は返答を返した。輝夜は満足げにうなずくと、右手で髪をかき上げながらまた笑った。 「さすが私の家臣だわ。勉強を怠ってはいないようね」 「恐れ入ります」 ウスバカゲロウ。成虫になってからわずか三日で死ぬという短い生を宿命づけられた昆虫だ。その三日のうちに、彼らは恋いうる相手を見つけ、子を残し、そして死んでいく。永琳より聞く所によれば、地上人はこの虫に己の姿を重ね合わせ、生きる意味というものを考えたりもするらしい。 「しかし姫様。月の話ですよね。なぜ突然、虫の話を……」 「そう焦らないの。……イナバ、月はね、死んでいるのよ」 「へ……?」 これだ。この突拍子のない発言こそが輝夜に潜む不可解さだ。見た目の美しさに騙されてはいけない。外貌の完璧なることに惑わされてはいけない。その心底では何を思っているのか計り知れない。驚きのあまり、鈴仙の口からは空気が抜ける情けない音が、声と混じった奇妙な響きが漏れてしまう。その様子を見て少しく微笑を浮かべながら、輝夜はまた天空に座する金色の珠へと顔を向け直した。 「太陽は、日の出の度に天空を支える女神の腿の間から産まれる。一度死んだものは、埋没した暗黒の中からその身を再び浮き上がらせることによって輝きを取り戻す。在り続ける生とはあまりにも膨大すぎるもの。相反する双子の片割れ――すなわち死と手を取り合って、交互にすべからく生きとし生ける者を抱き締めなければならない。仮に長きに渡って欠けることのない満月があったとしたら、このシステムからは外れている。外道もいいところね」 「確かに……そうかもしれませんが」 ならば何故、この世界に不老不死などというものがあるというのだろうか。 「地上の人たちは、ウスバカゲロウみたいな短命な生き物を例に挙げて命の儚さを哲学したりするみたいだけど、そんなの私に言わせれば“揚げ足取り”だわ。まるで死ぬために生きているんじゃないか、なんて……死はそれ自体が悪なのではない。個に終わりをもたらす嫌われ者扱いされているけれどね、それは一を殺して百――いや、千や万をも救済するために巧妙な形で仕組まれたシステム。全てのものは“死ぬために生きるのではなく、生きるために死ぬ”のよ」 そういえば、誰かが言っていたわね。“死は生涯の完成である”なんて。 最後にそう呟いて輝夜はまたふッと笑った。実に可笑しそうな様子であり、鈴仙からも頬の肉があまりの可笑しさに引き攣っているのがよく見える。天から降り注ぐ――輝夜に言わせれば死んでいる――月からの光が、艶然たる装いをこの姫に対して賦与していた。 生きるために死ぬ。 その一見して相反する言葉の意味が、鈴仙には到底理解できそうもなかったし、さきほどから続く輝夜の講義とも一人語りともとれる饒舌さにもついていけなかった。彼女がここまで喋るのも珍しい。 「栄えた文明がいずれ滅びる如く、精強な戦士がやがて老いるが如く。生を追及するということは、同時に死をも目指すということ。その先に待ち受ける終焉に向けて歩き続けるということ。生の悦楽の中に潜む抵抗しようのない死への誘惑に向かって。でも、それを忌避して滅するために人は闘う。そして生きる。だからこそ、生命は美しいと多くの人が感じるのかもしれない」 それだけ言うと、輝夜は突然黙り込んでしまった。 一分、二分、三分――いくら経っても再び何かを言おうとする気配すら感じられることはなかった。 鈴仙は、美しく、残酷で――生からも死からも解き放たれた、この己の主君へと尋ねたいと思った。 貴女もまた、死したる月の中に還りたいと思う時があるのですか――――と 続きます。 暗い展開になります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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