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カテゴリ:小説紛い
これで最後です。
一話 二話 三話 「狂っている」。それが、鈴仙が永琳の告白を聞いて初めに抱いた思いだった。 嬉々として――そう、嬉々としてなのだ。弟子に嫌われたくないなどと言いながら、常人の道を踏み外した昔話を懐かしげに語る。おそらく、ちょっとした質問に答えるのと狂気に塗れた打ち明け話をするのと、そのふたつが永琳の意識においては全く同列に置かれ、矛盾なく並び立っているのだ。だからこそ何の躊躇いも戸惑いも無しにあれだけの話をできたものに違いない。 「しかし」、とも、鈴仙は思った。 己が師に感じた狂気とは、果たして本物なのか。何らかの錯誤という可能性は有り得なかったのか。彼女の語る言葉には、ある一片の真実性が秘められているかのような気がしてならなかった。 かつて蓬莱山輝夜は語っていた。死ぬために生きるのではなく生きるために死ぬのであると。今ならば、凡人の自分にもその意味が理解できるような気がした。遥か終着の見えぬ一本の道があるならば、そこから逸れるてしまうことは時に取り返しのつかない形で道を踏み外す行為だ。もしも道が崖上にあれば、そのまま道を歩くことが不可能に……文字通りに「死」に囚われる。それを知っているからこそ旅人は道より外れぬように、一歩一歩を踏みしめるのだ。生と死の逆説。絶対に受け入れることのできないと思う、忌避すべきモノが常に傍らに寄り添うからこそ、それから逃れようともがき続けなければならない。 それは苦しいけれども――きっと、なりふり構わず両足をハンマーのようにして地を打ち付けながら逃げ出すのは、とても躍動に満ちた動的な行為なのだ。それに、鈴仙は輝夜や永琳を笑えない。彼女とて戦死を厭うた脱走兵。遠くから指さして臆病者と罵る権利などとっくの昔に投げ捨てた。永琳は、きっと輝夜を英雄だと思っている。古今無双の美しさと、古今無双の危険性を秘めた英雄なのだ。そしてそれを殺すことと、自分のために生かし続けることを同時にやってのけた。生と死を超越し、千の齢をもたらす蓬莱の禁薬。 彼女たちは、それがために今の形態を獲得したのではない。 その形態ゆえに禁を犯したに違いないのだ。 狂っているのではない。蓬莱山輝夜と八意永琳はどこまでも正常で、自己の関わるあらゆるものの回転をスムーズに行わせるべく、錆びついた車輪を無理矢理に動かしながら時には邪魔な部品の破壊さえをも厭わない。回し続けることが至上の目的ならば彼女らはしてはいけないと世人の定義づけた全ての常識を踏み越えるだろう。そして、回すべく定められた車輪を二人で回し続けるのだ。 どこまでも常人には理解され得ない。それを人は狂気とよび、おかしな連中と遠ざける。理解し難いものを目にした時の拒否反応ほど恐怖に彩られた感情があるものか。 鈴仙・優曇華院・イナバが仕えているのは、そんな連中なのだ。 それを撥ね退けることなど、彼女にはできそうもなかった。 ―――――― 月世界の全てを投げ出した鈴仙には、もう、永遠亭しか寄る辺が無い。 たとえ彼女たち以外の全ての世界から狂っていると後ろ指を指されようとも、彼女は輝夜と永琳の下に頭を垂れ続けることだろう。 何より彼女自身、主君と師の語る言葉の、誰より最大の体現者だったのだから。 その自覚があり続ける限り、鈴仙・優曇華院・イナバは永遠亭の一員だ。今の彼女をして自身を存立せしめているのは、主君と師の語る昔話に、まるで自分の内心をみすかされてしまったかのような錯覚だった。正しくも狂える彼女らの放つその言葉は一語一語が利剣と化して鈴仙へと突き刺さらずにはおかない。彼女の紅い眼をもってしても見ることの叶わぬ血が流れ出、鈴仙がこれから歩くであろう道を黒々と穢していくのである。そこに足跡を刻むということは、鈴仙・優曇華院・イナバは蓬莱山輝夜と、何より八意永琳より放たれる狂気を自らの身に進んで取り入れることに他ならない。 永続する生と遠ざけられた死の故に、汲めども尽きぬ不滅の夜へと滑り込んだ二人。その追随者としての一生を全うするのは何よりも破滅的であり、誰よりも怖気を喚起する。 だが、自分自身への悔恨と憤怒すらも噛み砕いて、月兎は万物から正気を剥奪する金色なる魔珠の化身へと帰依しなければならなかった。そうせざるを得なかったのではなく、そうするべきだったのだ。 幸い、彼女は「狂気を操ること」について長けているのだから――――。 東方に仮託してお前の思想を語っただけじゃん、とか言われると反論できない。 そのうち輝夜・妹紅・慧音あたりの話も書きたいなあ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.07.16 00:23:02
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