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カテゴリ:小説紛い
「覚」 少女は、自分がいつ、どこで、また誰と誰の間に産まれたのか。 そういった一切の記憶を、保持してはいなかった。元から持っていた記憶を何かのはずみで失ってしまったのか。それとも今の自分が見ている情景は、誰かが見ている夢なのだろうか。ただ、後者だけは絶対にあり得ないと彼女は断言ができたはずだ。薄汚れた家々と、暗い金属の風情を帯びた雲と空と、鼻を突き刺す錆びた鉄のような匂いと――何より通りすがる人々の顔と声の恐ろしさと言ったら、とても意識の内部でいい加減に作り出されたような脆弱性の化身とはどうしても思うことができないのだから。 自分が在るということの確信は、その瞬間だけを生きることで得られるのではない。それまでの経路で積み重ねてきた彼ら自身における連続性の集合体なのだ。ということは、道端で頭を抱えつつも、耳と眼だけは鋭敏に機能させつつ他者を観察するしかなかった彼女は、ただそこに落っこちているだけのヒトガタに過ぎず、悪くすればそれが意識を持っているということ自体、何かの「気紛れ」だったのかもしれなかった。 もしかしたら、彼女は今この時点に突然ポンと世界に投ぜられた、不条理の産物なのかもしれない。だが、ある意味でこの解釈は最も適当だ。 不条理な彼女が不条理な眼でもって不条理な意識を覗き込む。 およそ生物である以上、その身に帯びた機能と性能は生きる上での何らかの目的をもって配置されたはずである。飛行を可能にする鳥の翼、肉を切り裂くための獅子の牙、外敵から逃れるための兎の脚力……そうして、天意によってすべからく生物たちに下賜されたそれら諸々の能力こそが、あらゆる生物をして生物たらしめている一要素なのだ。 「それなら、どうして」 と彼女は問うた。 神に問うているのではない。彼女自身が彼女自身に問うているのである。 彼女は何故、“人の心を覗く”などという不可思議な能力を有しながら、今ここに存在しているのだろう? その能力をして、どのような形で彼女は彼女として生きているのだろうか? そう思って胸元に在る“第三の眼”を――顔にくっ付いた尋常の両眼とは、否が応にも違う無機質な視線を投げかけている――ふと撫でると、それは、彼女からはまるで独立した意思ある者の如くにぶるりと震えた。ほんの一瞬間の錯覚みたいなものに彼女には思われたのだけれど、肉体的な感覚とは違う心の深部に根差した不可視の瞳が、確かにその手に触れたのだと感じられた。つまるところ、彼女自身の考えとは違うところに、その第三の眼が根を下ろしているのではないだろうか、と、彼女は思った。 その眼を介する世界に語られた姿は、常に刹那の象徴でしか彼女にとっては有り得なかった。常に一過性の片言隻語を放っているからで……要するに、精神の内に生じた無責任の意思というものを吐き出すだけの存在の大群体を見つめることが、彼女の避け難い日課なのだった。 とかく人の心というのは不可解だ。 顔で笑顔を作っておきながら、本心では相手を蔑んでいたりする。 またこんな事もあった。街をふらふらと歩いていると、一組の男女が顔だけはさも楽しそうに、互いを気遣いつつ歩いていた。男が女を愛してはいたが、女も男に対してまた然りであるというのが簡単に見て取れた。けれども、彼ら二人は互いに互いを心からの接触を望んでいたわけでは決してない。片方は常に一片の打算を含んでいたし、もう片方は劣った相手を自分が救ってやっているのだという驕りを飲み込んですらいたのだった。 この二人がどうなったのか、彼女自身はまるで興味が無かった。 それに人間の心自体をして解釈の遂行は困難を極める。 大体が子供からして常に二つの異なる考えを持っているものだ。言葉と裏腹の思いをなぜ彼らは隠すのだろう。本心の衝突は無用の軋轢しか生まぬ、ということはよくよく理解している。彼女とて、それが解らないほどに馬鹿ではないという自負がある。けれども虚偽が悪徳とされ、真実が美徳とされる者たちの間においてまで、如何にしてこのような欺瞞が常態と化しているのだろうか。ただそれだけが不思議でならないのだ。 もしも皆が自分のように真実の心のみを読み取り、それを糧にして生きていくことができたらどうなるのだろうか。そんな風に考えてみたこともある。 けれども、人と人の心根が常に一致せずに食い違うのが定まった天命である以上、そんな仮定はするだけ無駄というもので、もしそんな時代が到来したならば害意の露骨な表明は早晩、人間たちを破滅へと導かずにはおかないだろう。 人間たちの概念を借用するならば、彼女が抱くのは「軽蔑」と呼ぶのがふさわしい。 人間一般への不信。そして自己への恐怖。常に流れ込まされることを強制される真実としての世界の在り方は、少女の心を苛むには十分過ぎる。それは人間への軽蔑であり、自分自身への軽蔑であり、また彼女を無理矢理、自分自身の掌に留め置こうとするこの世界への軽蔑に他ならなかったのである。 むしろ積極的に他人との関わりを、彼女は絶った。 関わろうとする人間は、見透かした心を突き付けて恐怖させ、追い返した。 それでも無理矢理に関係を持とうとする者は常に居る。時には「善意」というものらしいが、この善意という概念ほどややこしいものもちょっと無いだろう、と、彼女は人間を観察して気が付いた。善意によって相手を救済するということは、相手が少なくとも今は不幸せであるとの確信に基づくはずのことだ。心にその意識が生じた時点で、本人はいかに否定を試みようとも相手より高みに立って見下しているという傲慢さと紙一重でしかない。事実、人間たちは多かれ少なかれそう思っていたのだから。 今にも死にそうな鬱々たる表情をした小娘だと思って侮っているのだ。さらに、あわよくばもっと穢れた欲求の捌け口を得たと勘違いしていた輩すらも居る。 けれども、彼女もたった一人だけ、当たり前の人間とは違う「或る人」に出会ったことがあった。 日ももうだいぶ沈みかけた、秋も終わりかけた日のことであった。雪こそ降らぬとはいえ風も日ごとに強まって寒気がその足音を響かせ始めた状況では、なかなかに辛いものがあると言わざるを得ない。だから残り少ない熱を逃さないために大人しく肩を抱いて、小さな身体をぶるるとわななかせることしかできなかった。誰も自分に手を差し伸べてはくれないだろうし、その能力と他人への軽蔑の故に、そうされることすら彼女は望まなかった“はず”である。けれども、”はず”というのはやはり“はず”に過ぎず、頭の中で過去の事実を基にして組み立てた、言うなればよくできた仮定である。ただ――ずっと不思議だったのは、彼女自身がこの時に限って、人間は寒さの中でどうしていたのだったかという疑問が、何故だか解らぬが沸々と湧き上がってきたことなのだ。ふとした心の機微というものにいちいち説明を試みよ、ということほど愚かなで野暮なことはない。しかし、普段から他人の心を否も応も無しに見つめることを天意によって強制されているらしい彼女にとって、それは至極当然といえる疑問であった。 ……善と悪の両側面を抱く人間としてはどうにも理解しがたい事であるが、“彼ら”は他者に対して明らかな負の感情を抱いているにも関わらず、別の“彼ら”と接するのはとても楽しそうなのだ。少なくとも顔に現れる表面上のそれだけでなく、精神の内部においても確実に幸福を味わっている。 「関わる」というのは、本質的に欺瞞と妥協の産物であるに過ぎない。 それが、彼女が記憶している限りの自身の生涯から学んだ事実だ。そして、欺瞞を避けるためにあえて人をも避ける。稚拙といえば稚拙な処世術。ただ、そうした欺瞞に彩られたはずの人間の肉体と精神は、見るだに暖かそうであることに疑いをいれる余地は無い。もしかして、自分は怖れ過ぎているのだろうか……? そう思って胸に下がる第三の眼をまたひと撫ですると、今度は何も感じなかった。 自分も、あるいは誰かと関わってみれば、傍から見つめ続ける以外の“彼ら”の心情に触れることができるのかもしれない。「誰とも関わるまい」とした彼女の“はず”は、やはり“はず”という仮定だったのであろうか。その記憶にある限り、初めて意識において他人に対する興味が起こると同時に、もうしばらく忘れていた自分自身の存在に対する問いかけが蘇ってきもしたのだった。 彼女が「或る人」に出会ったのは、そこまで考えてみた直後である。 いつのまにか認識できる領域の内部に「或る人」が入り込んで、むしろ積極的に彼女に触れようと思案していたのだから驚いた。まだ自分に対して何らかの関わりを持とうとする者がいようとは。 挨拶もそこそこに「或る人」は言った。 お前は「覚」(さとり)なのだと。 続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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