|
カテゴリ:小説紛い
1話
2話 「覚」3 第三の眼を閉じるという事。 心を読む程度の能力を自ら放棄すると言う事。 それはそれ自体が人間と同様の属性になれるという事を必ずしも意味してはいまい。覚として在る彼女は、仮に能力を喪失してしまったとしても、肉体も魂魄も意識も存在も、ただひたすらに覚なのだ。たとえ彼女を彼女の種として在らしめる能力が消え去ったとして、残るのはやはり覚という残滓である。能力の源泉たる第三の眼を棄ててしまっても、彼女が覚であるとする事実は消えずに残る。事実は事実として、彼女と彼女を取り巻く周囲との関係が、常態と異形のそれであるという悲劇が何ら消えるという保証は無いのであるし、また、彼女は異形であった故に常態に所属する者たちの見えなくなった内面に怯え続けなければならない。 本当の孤独の正体――疑心暗鬼の四文字、そして猜疑心という魔物の存在を突きつけらた時……彼女は、自分自身を欺いていた愚劣さと稚拙さ、その両方をいっぺんに暴き立てられたような気がして、ただ俯く事しかできはしなかった。全身を生温いぬめりが包み込み、額を小さな虫が這うような感覚があった。緊張は発汗を生み、発汗は羞恥を生む。 「それでは、どうして」 と、彼女は「或る人」に問うた。 涙こそこぼしはしなかったものの、声の調子には確かに言い知れぬ悲しみが滲んでいた。 「どうして、私たち覚は、心を読む存在として産まれついてしまったというの」 「うう、ん…………難しい問題ですわ」 「或る人」は、やけに芝居がかったようすで眉根を寄せ、さもこの世の真理を解き明かさんと苦悩する哲学者の如き煩悶を垣間見せた。 「先ほど、私は妖怪について自己完結性という言葉を用いました。正確に言えばこれは不正確な表現ね。人間と妖怪は切っても切れない関係……というよりも、妖怪は人間を常に必要としている。人間が人間を必要とすることでしか生きられないように、ただ妖怪は人間を常に欲しているわ」 「それは――食料ということ?」 「もちろん、それもある。人が他の生物を喰らわねば生きられぬように、妖怪は人を喰わなければならない。けれどね、不便な事に」 「或る人」は、ふと自嘲めいた笑みを浮かべた。まるで、解決できない不安を抱え込んでしまっているような、そんな様子にも思われた。 「……そう、不便な事に、妖怪は人に恐れられなければならない。人間たちが私たち妖怪に対して闇にその気配を感じ、物陰を遠ざけ、深山を畏怖し続けてくれることが、私たちが存在する理由であるし、存在できる要因でもある」 「ちょっと待って。それはおかしいと思うわ。“彼ら”が私たちを恐れなくなったら私たちは生存できなくなってしまうと、そうあなたは言うの? 人間たちが妖怪という存在を忘れ去ったとしても、私や――あなたが言うところの妖怪は死なないはず」 「生物学的生存が不可能になる……というレベルの話ではなくてよ。忘れられるという事は何よりも残酷な事。ある集団が連帯を保っていられるのは、寄り集まっていたいと言う欲求を核心に秘めてはいても、結局のところ自己と他者を隔てる強固な境界を無意識的に造り出しつつ自分達を統御するための幻想を欲しているから。それを忘れるときに、“彼ら”は“彼ら”でなくなってしまう。同時に、不要になった私たちは消え去ってしまう。ヒトが生きるためにその幻想から誕生したのが私たち妖怪。強い情念を得られなくなった……つまり畏れられなくなった妖怪は――それは、神ですらも例外ではないもの――存在が抹消される。世界に省みられる事のない、“かつて存在したモノ”の列にその名を加えることになるでしょう」 「……? 話が見えないわ。心を読んでも、理解できない」 「そうでしょうね。でも、大概の妖怪は大なり小なり理解しているはずよ。人間は幻想に依存しなくとも生きていけるけれど、幻想そのものである私たち妖怪は、それを生み出した人間に依存しないと生きていくことができない。困った話です」 溜息をつきながら、「ある人」は言った。 困った――確かにそう言ったはずなのに、表情からも声からも、もちろん心からも、少しもマイナスの感情を読み取れない。むしろ今の自分が“そうであること”をためらい無く受け入れながら生き、世界に立っていることを全面的に肯定し、無上の幸福と共にその腕(かいな)で抱きしめている。彼女には、そう感じられた。 「けれどね、本当の本当に核心となる部分は、人間も妖怪も関係が無い。きっと同じなのよ」 「同じ……?」 「そう。それは、誰かと繋がり続けなければならないとう事。それぞれが侵犯不可能な“境界”を抱え込みながらも、本心では常に誰かと一緒に居なければならないと思っている。人間は人間と共に歩むことで自己を人間たらしめられているのだし、“彼ら”の幻想の中から生まれた私たち妖怪も、生存するうえではたった一人で完結しているとはいえ、最終的にその存在を留めさせるものは誰かの思いの中に想起されることに他ならない。それが愛であれ憎しみであれ、崇拝であれ憎悪であれ、恐怖であれ畏怖であれ…………。他人に記憶され続ける限り、誰かは誰かとの接続を保ち続けることが出来るのです。その点に関しては人間も妖怪も、もう馬鹿馬鹿しいくらいに同じだわ。忘れ去られるよりは、憎まれてでも思い出してもらえる方が幸いよ」 そう言うと、「或る人」はまた洋傘を傾け、顔をまったく覆い隠してしまう。けれども、彼女には相手が何を考えているのかがよく理解できるのだ。「或る人」は笑っていた。とても、とても、楽しそうに。 「……貴女が自分自身の境遇を、妖怪として存在する事を肯定しているのなら」 と、彼女は呟いた。 ひょっとしたら、という、一抹の希望を胸に抱きながら。それは、かつて彼女の知らない感情だった。 「私も、私自身の、“心を読む程度の能力”を――――」 肯定できるのだろうか? 他人を軽蔑し、自身を哀れみ、世界を憎悪するに至らせた忌々しい自己の象徴を? 「そういえば、あなたはどうしてこんな能力があるのか……って言っていたわね。身も蓋もないことを言ってしまうと、あらゆる事象と現象に意味なんて物は存在しないわ。ただ我々がそれを視て、知って、感じて、最適だと予想され得る意味を埋め込むだけ。あなたが他人を軽蔑する手段として使うのならそれまでなのだし、“繋がり”を欲するための道具だと思えば、少しばかり扱いづらいかもしれないけれど、決して無駄ではない」 もっとも、どう捉えるのかはあなた次第よ。 「或る人」の心がそう告げていた。 おそらく、自分の心が読まれる事を見越してあえて口には出さなかったのであろう。 うずくまっていた意志が両脚を伸ばして立ち上がり、世界を見回す覚悟が萌え出した。真綿が膨らむような……上手くは考えられないながらも、もう少しだけ、自分以外の者と対話してみるのも暇潰しくらいにはなるかもしれない、と。 それは、彼女の内にあってはまるで爆発だった。ある一点に達したエネルギーが急速に膨らみ始め、膨張しきって弾け飛んだ。発生した熱が彼女の肉と魂の全てを満たし、もう一生冷めていたであろうはずの彼女の全てを熱し、焼け付かせた。 「あら、ついさっきまで死んだ魚みたいな目をしていたのに。少しはマシになったんじゃない?」 「貴女みたいな変人の気紛れでも、少しはいい薬になった。ありがとう」 「それは、どういたしまして。今度合う時があったら、どんな人間や妖怪に出会ったか……思い出話を聞かせてほしいものね」 「なるべく楽しい話になるように、善処するわ」 そう言うと、彼女はニンマリと笑った。唇が歪められて左右に引っ張られる姿は、とてもぎこちない。しかし、もう何年ぶりかに零れ出た嘲笑以外の笑顔を、隠すつもりは微塵も無かった。 「さようなら、八雲紫」 「さようなら、古明地さとり」 別れの挨拶を交わし、「或る人」……境界の妖怪、八雲紫はいずこかへと消え去った。 後には塵ひとつも残さず、一陣の風すらも起こることはない。 紫が居なくなった後の寒々とした道をようやく彼女……古明地さとりは歩き出した。 誰の心を覗いたとしても絶対に見出すことの叶わないであろう、力強い歩みであった。 <了> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[小説紛い] カテゴリの最新記事
|