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カテゴリ:読書
明日の高速道路教習があまりにも嫌過ぎる。
よりにもよってUターンラッシュのこの時期にブチ当たってしまうんだものなあ……。 いくら教科書で確認しても本物は勝手が違うし、事故らなけりゃ良いんだが。 無事に教習を終了して生還したら、たぶん明日の今頃に更新されるんじゃないでしょうか。何にも音沙汰が無かったら、死出の旅に発ったという事で、ひとつ…………。 ザミャーチン「われら」(川端香悪里訳・岩波文庫)読了。 国家の思惑と個人の自由意志の相克というのはいつの時代も常に存在する苦悩かもしれないが、本作のような明確なディストピア的世界観の中ではより一層の悲劇性を獲得する。 かの名作「1984年」などでも見られるように、ディストピア小説では全体主義的で個人の権利が圧迫されている。それは「ユートピア」という概念自体を明確に定義化したトマス・モアの段階で既にそうである。つまり国家に属するという事は、まず己の住まう国家に奉仕するという義務を無条件に課されているという事でもある。「われら」のような物語は、その一点を特別に推し進めて描いているのである。 さて、そこで個人を国家の真の成員たらしめるものとは? 個人がその国家に属するという事を疑問に思わぬようにすればよいのである。 一般的には愛国心や、国家そのものが解体されえない強固なものであるという幻想に起因すると考えられるそれは、本作における「単一国」のような全体主義的な共同体では支配体制そのものに疑問を抱かないような政策が特に重んじられるだろう。 かくて秦の始皇帝が焚書坑儒にて儒者を穴埋めにして儒学の書物を焼き捨てたが如くに、愚民化政策が行われる事になる。「華氏451度」「1984年」などでも描かれてきた仮定であるが、国民がそもそも疑念を抱かない(抱けない)ようにしてしまえば反逆の芽を摘む事は容易いし(そもそも生えてすらこないようにしているのだが)、国家と個人の相克という事態も発生する事は無いはずなのである。 この総体と単体との対立は、時として想像も出来ないような苦痛を人間の精神に発生させるようだ。国家に限らず、組織に属するというのは個人を抹殺してひたすら全体に奉仕し続ける事で真の「幸福」が得られるとも解釈できる。そして、それは「単一国」を統治する最高指導者「恩人」の思想でもある。 「恩人」が遂行した、人間の“想像力”を剥奪する一種のロボトミー手術は、そのまま人間の権利そのものを切り取るロボトミーでもあるのだろう。 共同体の全体性への奉仕というのは、社会性の動物である人間の義務である。けれども“われら”が全体の成員であると同時に、何人にも侵し難い個人としての存在を有するという天与の権利を自覚するその時にこそ、国家と個人の相克という悲劇の端緒は誕生する。 人間が人間である限り、時代によって趨勢こそ度々変化すれど、この対立は決して決着を見る事はあるまいと思う。 ……最近、カタい本ばっかり読んできたので、次は「化物語」でも読んでみようかい。 久し振りのラノベである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.08.14 23:15:45
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