3.11
島内では、一昨年の12月頃からみやぎ生協の個人配達を利用するようになってました。毎週注文した商品が巡航船に積み込まれ、それぞれの港で荷物を受け取ります。石巻に出かけ、船の時間を気にしながら買い物をしていた頃に比べたら、とっても便利。大泊でも数軒で利用していて、そのうちの1軒の方が島外の身内の元へ引っ越すということで「生協の配達やめっから、頼むね」と声を掛けられたのが、ナマコを出荷し家に戻る時でした。「じゃあ、生協から○○さんに電話してもらうように話しておくから・・」14時40分過ぎ、「行ってくっから」と午後の作業(自宅の改装)に出かける支度をしていたオヤジ。生協に電話しなきゃ・・私は生協に電話をする。電話が繋がり話し始めたその時に揺れ始め・・直ぐにおさまるかな?とそのまま話を続けていたら・・「地震だ!!いつまで電話してんだ!!」とオヤジが戻って民宿の2階に避難。「電話切りますね」「そうですね」電話を切った途端に揺れが大きくなり、慌てて民宿の2階へ避難。我が家のルール、家の中で地震にあったら民宿の2階に避難。揺れがおさまってから外に出る。どんどん揺れが大きくなり、私には家がキシム音しか聞こえていませんでした。「あー、この家が潰れちゃう・・」それしか考えていませんでした。オヤジに言わせるともの凄く大きく「ゴーゴー」と聞こえていたそうです。地鳴りなんだろうけど。そして電車が大きく揺れている感じ。揺れがおさまるか?と思えば更に大きく揺れ・・を繰り返し。「これが噂の宮城県沖地震なの??なんでこのタイミングで来るの?」揺れがおさまってからの記憶は定かでないですが・・まず我が家のにゃんズ、2匹を確保。お出かけ用のゲージに入れて。寝室に行き、地震に備えていた靴を履く。幸い通路沿いのガラスは割れていない。手巻きのラジオを持つ。にゃんズを連れて外にでる。近所のお母さん達も外にいて、何気にウチの前の道路に集まっていて・・。多分、揺れがおさまると同時くらいに大津波警報のサイレンと避難指示の放送が鳴っていたと思うのですが・・オヤジが「みんな乗せて逃げろ!!」みんな着の身着のまま外に出ていたと思うんですが、そのまま近所のお母さん3人とウチのにゃんズを軽ワゴン車に乗せ、高台に向け発車。ラジオをかけていたけど・・ラジオが何を言ってたのかも記憶にない・・車内で会話をしていたのかすら覚えていない・・。心臓がドキドキしていた事だけ覚えてます。とりあえず、自然教育センターのグラウンドに車を止める。ミゾレ交じりの雪が降っていた。しかもどんどん大降りになってきて・・オヤジの妹と娘からメールが入る。いつ圏外になるかわからないので「無事、避難中」とだけ打って返信。これで身内には無事であることは伝わるだろう。男性陣は無事なのだろうか?心配になってくる。少しすると近所のお父さん2人がグラウンドにやってきて合流。大泊の消防自動車2台も合流。観光客男性3人も避難してきた。教育センターからだと林があるので海の様子がはっきり見えないけど、木の隙間から渦を巻いているのが見えた。牡蠣養殖用の大型ブイもグッチャグチャに絡んでいる。「ここじゃ、夜は越せないぞ」近所のお父さんが言う。もう一人のお父さんと教育センターの様子を見に行く。ガラスが割れたり、危険な状態。建物の中も無理。「大泊の公民館は?」「寒くて無理だ」そのような会話がされたと思う。マンガアイランドか??オヤジや若者達も合流し、マンガアイランドに避難することになる。幸いにもオヤジと大泊の若者K君は、去年マンガアイランドで働いていた。設備や備品に詳しい。大泊から教育センターに避難してきた人たちと観光客3人は、K君の車、消防の車に分乗しマンガアイランドへ向かう。途中、仁斗田から教育センターに避難してくる人たちと会う。「センターはダメ。マンガに行きます」と声をかけ、一緒に避難する。時間の感覚が全くないし、時計も見ていないので・・多分マンガに入ったのは15時30分~16時頃だったのでは。外はまだ明るかった。津波で大泊の家屋が流されたとか、大泊も仁斗田も港が壊滅的な被害を受けていて、津波で島の人が行方不明になっていた。ということを、この時点では知りませんでした。今日は、ここまで。おととい、水道が復旧しました。関係者のみなさま、ありがとうございます。お疲れ様でした。追々、水道にまつわる話もしたいと思います。