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【送料無料】なぜ君は絶望と闘えたのか 光市母子殺害事件。 この事件は本当にショッキングな事件だった。 光市が遠い場所ではなく、何度か訪れたことがある場所、ということもあるが、 何より、事件自体が常軌を逸していた。 当時18歳の少年が、配管工事を装って訪問した先で、 母親を殺害した上で暴行し、1歳の女児まで殺害した、という事件。 当時私は工事会社に勤務していたということもあって、 「工事会社の者を装って訪問」という手口に社内で衝撃も走ったことも記憶している。 この事件の経緯は、さらに混迷を極める。 母子殺害暴行について、少年は全て認めているにもかかわらず、 なぜこんなにもめていくことになるのか、報道を見ながら全く理解できなかった。 母子を殺害したことも、その経緯も、 全て被告が認めている以上、論点になるところが無いのに、と思ったのだ。 さらに最高裁まで進んでいくと、被告少年はそれまでの説明を一転させ、 ドラえもんがどうのこうの、とかワケわかんないことを言い始めるし、 橋下知事(当時は知事じゃない?)もなんだかよくわかんないことを言い出すし、 報道を見ていても「はあ~~~~???」と呆れるような経緯をたどっていく。 まったくもって、理解できない事件。経緯。 それが、この本で溶けていった。 一審、二審とも、無期懲役が言い渡される。 死刑ではなく、無期懲役。 終身刑制度が無い日本では、無期懲役は死刑に次ぐ重い刑罰だけれど、 妻子を無残に殺害された量刑としては軽すぎる。 それが、悔悟を伴うものであるならともかく、 少年からはそれらしいものが見受けられない……。 何度かそれらしいものを口にはするけれど、それは口ばかり、形ばかりにすぎず、 心の伴ったものとは思われない。 にもかかわらず、「2人しか殺していない」という理由で無期懲役。 これは確かに、理不尽な判決だ。 また、繰り返し問題とされた、少年法。 少年法のために、遺族・被害者は事件の経緯、その後を知ることすらできない。 法廷に被害者の遺影を持ちこむことすら、出来ない。 その被害者の心情すら、取り合ってもらえない。 報道も被害者については無遠慮に実名で報道していくのに、 それまでのつましいけれど幸せな生活を詳細に報じていくのに、 少年については名前一つ、顔写真一つ、報道されることがない。 加害者が救済され、被害者が置き去りにされる現実にも疑問を提示している。 そして、本村氏が積極的に社会運動に関わっていく経緯。 『なぜ君は絶望と闘えたのか』という題の疑問に応えるとすれば、 周囲の手助けであったり、殺害された妻子であったり、だろう。 けれどこの本は単に、それらを「お涙ちょうだい」的なものに終わらせず、 司法の問題、社会の問題を提示しているのだ。 結局、本村氏の運動がもととなり、社会は動いていく。 被害者救済に政府も司法も、重い腰を上げたのだ。 社会を変えていく。 これは、すごいことだ。 読んでいると、鳥肌が立つほどの感動を覚える。 結局、2008年、差し戻しとなった広島高裁で、死刑判決が出る。 今が2011年だから3年前だ。 この本が出版された時点で、その判決が最新のものとなり、 死刑判決を受けて、本村氏が墓前に報告したことを添える。 また、元少年と面会して、その判決を受け入れた様子であることを、 書き添えている。 死には死を持って購う。 本村氏はそれを求めていたし、 死刑判決の後の面会で、元少年もそうあるべきだと思っている、と書かれる。 この奇妙な合致は何なんだろう、と不思議な感じがする。 何か宗教に繋がるような、死をじっと深く見つめることの意味が、あるのかもしれない。 Wikipediaで光市母子殺害事件について読んでみたのだけれど、 広島高裁での死刑判決後、弁護側は即日上告したとのこと。 出版が2008年であることから、上告したこと以上は触れられていないのは当然だが、 その後、この事件はどうなったのだろう。 まだどこかで(上告だから、最高裁か?)、続いているんだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.06.10 12:39:28
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