過去を所有するということ
今日の写真:「向かい風/蓼科高原」161031-DSC_0422-10dNIKON D610, AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR --- 『過去とは所有者の贅沢である。 どこに私の過去をしまっておこうか。過去はポケットの中に入れられない。過去を整頓しておくためには一軒の家を持つことが必要である。私は自分の体しか持たない。まったく孤独で自分の体だけよりほかにはなにも持たない男に、思い出をとどめておくことはできない。思い出はこの男を斜めに通り抜ける。私は不平をいうべきではなかっただろう。なぜなら自由であることだけを私は欲したのだから。』(「嘔吐」ジャンポール・サルトル) これはそのまま私の想いである。私がこのことに気づいたのはすでに40歳を過ぎた頃だった。過去というもの、個人的には「思い出」、は心の中やポケットの中にしまっておけるようなものではないということに私は突然気づいたのだった。 思い出にまつわるモノやコトを整頓してきちんとしまっておく場所が必要なのだ。個人的アルバム、卒業写真集、子供の頃に作った工作や絵、運動会の賞品、ボール、ギターなどなど。それらを保存しておく場所が必要なのだ。それが確保できないならば、いずれそれらは処分されるほかない。 大きな庄屋(しょうや)にあるような大きな蔵(くら)は思い出の宝庫であろう。それは「歴史」をしまっておくための場所であって、断じて単なるもの入れあるいは納屋などではない。富裕なものは思い出に関しても「富裕」なのだ。 しかしそれは自由であることとは相反する立場に立つということでもある。私にはそれができなかった。私は自由であることを何よりも欲した。だから私の所有する思い出は(過去は)、私の心の中、記憶の中にあるもののみである。 『彼は社会的に重要な人間ではない。正真正銘の一個人である。』(「教会」ルイ=フェルディナン・ゼーヌ) これこそが私の生きるスタンスである。 うちあけ話になるが、しかしさらに年齢を重ねたいま、過去の記憶がしだいに曖昧になってくると、物証としてのあるいは寄る辺としてのあるいは思い出す切っ掛けとしてのそうした「モノ」が無いということをいささか残念に思うようになったのもまた事実ではある。 December 31, 2016・記 from 蓼科高原ペンション・サンセット