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カテゴリ:naoやん【旅行珍道中】
ワシじゃ。
今日は京都から帰って来て一日目の仕事じゃったんじゃが、何気に疲れたわ~。 つかっ今日、うちの会社のSくん、Sさんにブログやっちょる事バレたんよ。 (別に悪い事しちょる訳じゃないんじゃが、何か照れるよの。うきゃ♪) 柄でもなく照れてんじゃーねーよ!!と押して次を読んでくれたら嬉しいです!! ゛(*・・)σ【】ぽちっとな♪ ↓ 今日は軽~く京都行って来たリポートさせてもらうけぇの。 これがよくテレビとかでも映っちょる八坂の塔じゃ。 (なんかこの五重の塔見たら京都って感じよの。) (しかし京都も暑かったわ~。) (暑すぎて3度カキ氷屋に行ったけぇの。) (そして一ヶ所、ぶちっ旨いカキ氷に出会ったんよ!) (またその旨いカキ氷屋のリポートするけぇ~楽しみにしちょってつかぁさいの!) また次回かよっ!! (*・・)σ【】ぽちっと♪ 押してくれたらワシのはげみになりますけん♪ ↓ ココは有名な京都の中でも最も京都らしい一角がこの三年坂じゃけぇの。 嫁さんが言うには、『ここ(三年坂)でコケたら3年後に死ぬらしんよ。』 (どんなジンクスじゃちゅ~ねん!!) 絶対嘘じゃと (*・・)σ【】ぽちっと♪押してくれたら嬉しんじゃけん! ↓ 名前の由来は、清水寺に参拝した人がこの坂道で再び念願を強くするから再念坂、あるいは、願いが叶ったあとで観音様への御礼に再度お参りする時に通る坂であることから再念坂と呼ぶようになったという説もあるらしんじゃ。 (じゃけぇ~コケたら3年内に死ぬのはジンクスじゃの。笑) これは有名な三十三間堂(さんじゅうさんけんどう)じゃ。 本堂の内陣の柱間が三十三あるために三十三間堂と呼ばれていますが、正式には蓮華王院という名の天台宗の寺院です。もともとは後白河上皇の離宮・法住寺殿の一角にありましたが、長寛2年(1164)上皇が平清盛に命じてここに造らせました。五重の搭や不動堂などを従えて偉容を誇っていましたが、 度重なる震災ですべてを損失し、現在残っている本堂は文永3年(1266)に再建されたものです。 三十三間堂の見どころは、長大な堂内をびっしりと埋め尽くすようにして立つ千手観音像です。本像の千手観音坐像(国宝)を中心に、左右に10段50列で500体ずつ千手観音立像が整然と並んでいる様は圧巻です。この1001体の観音像、正しくは「十一面千手千眼観世音菩薩」といい、頭には11の顔をつけ、両脇には40本の手を持ち、1本の手が25種類の世界で救いの働きをし、40を25倍して「千手」を表しています。千一体の観音像は、仰いだ角度のまま自然に一つ残らず拝めるように安置されており、その中には「会いたいと願う人の顔が必ずある」と伝えられています。 (三十三間堂ホームページより抜粋) ここは来るんは、始めてじゃったが中々神秘的な所じゃたが、夏は館内は暑ぅ~て夏に入るのは不向きじゃと思うわ。笑 (なんちゅ~ても、この時写真じゃ~分からんのんじゃが、ジュニアが寝ちょって体温は暑いし寝ちょって体重は重いし・・・ほんま大変じゃったけぇの。笑) そして金閣寺じゃ。 お釈迦様のお骨をまつった舎利殿(しゃりでん)『金閣』が特に有名なため、金閣寺と呼ばれちょるんじゃが、本当は『鹿苑寺』(ろくおんじ)って言うらしんじゃ。 この地は鎌倉時代に西園寺公経の別荘北山第があったらしんじゃが、足利3代将軍義満が大変気に入って応永4年(1397年)に西園寺家から譲り受けて山荘北山殿を作ったらしんよの。 金閣を中心とした庭園・建設は極楽浄土をこの世に現したと言われ、後小松天皇(一休禅師の父)をお招きしたりして文化の発展に貢献した所で、この時代の文化を特に北山文化と言うそ~じゃ。 そして義満の死後、遺言通り夢窓国師を開山(初代の住職)とし義満の法号鹿苑院殿から二文字取って『鹿苑寺』と名づけられたらしんよの。 (長々、たらたらとすまんの。笑) しかしこの金閣寺・・・ほんま綺麗な金じゃったわ。笑 死んだらこがな極楽浄土へ行けるんかの? (ワシじゃったら・・・地獄かもの。笑) でも京都はなんか落ち着くよの。 京都行ってみたいの~と思った方は (*・・)σ【】ぽちっと♪ ↓ ほいじゃあの。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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