テーマ:毎日、一歩一歩。(2526)
カテゴリ:ゆみの一歩一歩<自分に向き合う>
今、人生の転機なのかなあ・・・と、思いながら暮らしています。
そんな風に思うのも久々です。 三年前にも確かに転機があって、乗り越えて それからは山や谷はあれど、なんとなくレールの上をすべるように進んできたんですが。 たとえば人間関係で誰かと何かあっても、「それでいいんだよ、大丈夫だよ。」と 言ってくれる人がいたら、それでまた進んでこれたんですよね。 みんなそうなのかもしれないけど、人生には誰かがいてくれて心強い時と、 何かの弾みで、もしかして一人ぼっちかしら、という気持ちに襲われる時があります。 本当はそういう時も、誰かがどこかにいてくれて、 不思議なことに、「出番かも」って思ってでてきてくれたりするのですが、 たぶん今回は人知れず何かあって、人知れず寂しかったのかもしれません。 そんな時、今まで外にばっかり向いていた心が、やっと自分に向くので、 いろいろ考えることになり、そうして、一番心が弱いときに、 自分なりの充電が終ると、今までよりもっと強くなっているんでしょう。 ただし、充電も、焦っても仕方ないわけで、 表面だけ充電しても、役には立たないことを学習してるので、 だからとにかく長期的展望で行くしかないのだわ、と自分でわかっている今回です。 とまあ、一生懸命、国バラゆみレポを15個も書いている間に 別のゆみが、こんな風に"暗中模索"しておりました。 いざという時は頼っておいで、と言ってくれる人がいてくれるのはありがたいこと。 でも、いざと言う時、ってほどじゃないから大丈夫、とまだ踏ん張れました。 前にも書いたけど、みんな自分も転機なんです。 こういう年になれば、みんな自分の「大変なこと」くらい、自分で背負えるわけで、 その点はゆみも見習わなくちゃいけない。 まだまだたくましさが足りないのよ。 一方そんな心の問題などないかのように、笑って元気に会える友がいてくれたのは 感謝です。 ちゃんとおいしいご飯を食べて、お酒飲んで楽しい話が出来たので、 もしかして、なんにも壁にぶつかってなんかいないんじゃないかと思えました。 日記に書きましたが、今年も同級生の男の子の勇姿を、同じく同級生の女の子と 見に行ってきました。 彼もきっと順風満帆じゃない人生を自分の手で切り開いてあの舞台に立ったんだろう と思うと、ゆみだってきっとやれる、と思うわけです。 喝采とか、祝福の観客の中で、光を浴びて挨拶してる同級生が輝かしく誇らしい♪ 毎年今の時期、目の当たりにすることで、自分の活力がまた沸いてくる仕組み なんですね。 今、何かが滞っているわけですが、 いつぞや、本当に笑えないくらい、外にも出れないくらいのことだって経験してるので、 体の半分で悩んでも、仕事はちゃんとこなせたり、「おいしい」とか「楽しい」とか 思えるのならまだまだ大丈夫だとわかります。 たぶん人間は、そんなにすぐにはへこたれないんだよね。 それはきっと、いろんな人と関わってるからなんだと思う。 ゆみからなんにも言わないのに、普段見ていてくれる友達は、何か感じるところ あったみたいです。 「ゆみちゃん、想いとかやりがいとか言わなくなったね。」 それは思いがけない言葉でしたが、当たっていたと思います。 友とは鋭いもので、ゆみはそういう言葉でごまかして、今まで割に合わないことや 理不尽なことも、文句を言わずやってきたと言うのです。 「想いがあるから大丈夫、とか、でもやりがいあるから、とか、言ってきたでしょ」 と指摘されました。 思い当たらないわけではないけど、これにはちょっと反論があって、 確かに半分以上ボランティアのような仕事の仕方をずいぶんしてきましたよ。 でも、やりがいって言葉でごまかしてたわけじゃなくて、その時は本当に、 やりがいあると思ってきたんだもの。 それが勘違いであったかは別として、たとえすっかり丸め込まれてたとしても、 自分の好きでやってきたこと。 だったらなんで、やりがい、って言わなくなったのかなあ。 確かに、やりがいって言葉は、最近口から発してないかも・・・と考えてみると、 きっとどこかで何かに気付いた自分がいるんでしょうね。 「やりがい」が変化したことに。 実はそれが顕著に体に出たりした日があって・・・ 自分でもびっくりしたんですが、いやなことを仕方なくやろうとしても、 ゆみってごまかしが利かないんでした。 それを話したとき、別の友が、「やっぱりゆみちゃん、もういやになってるんだよ。」 とはっきり言ってくれました。 それを踏まえて、今後の道を決めていこうと思っています。 こちらは仕事の話でした。 全ての仕事は本物のやりがいを持たないとうまくいきませんね。 さて、「想い」と言う言葉は、ゆみ的には、プライベートに使用していたつもり。 友達が言うには、「仕事への想い」って言葉も使っていたってことなんですが。 でもこちらも反論。 想いがあるから仕事をしてた、ってことも実はあるにはあったんだけど、 それはもう昔のことです。 とっくにそこには破綻があったんだもの。 だからここ数年は、仕事と想いは、違うものでした。 プライベートではよく、想いという言葉を使っていました。 とてもニュアンスのある言葉で好きだったし。 けれど最近、その言葉はいつの間にか封印していました。 そう、「想い」は・・・しばらく封印です。たぶん。 想いをしまう引き出しは、一つ一つ増えていって、それぞれにしまい込んで、 今までの分は大切にしていたけど、 今回は、その引き出し、作っていいのかもわからなくなって、ほったらかしにしてたら 勝手にどっかに消えちゃうかなあ、と思ったりしてます。 それが結構、消えていくには時間がかかりそうで、厄介者だったりします。 本当はそういう意識もせずに、気がつけばそこにある、っていうのが 本当の想いなんだろうなと思うこの頃。 持て余さずにずっとあるのが、理想なんですね。言葉には出さずに。 なんだかこんなわけのわからない問答を、自分に向かってやってます。 回り回って元に戻る時、結局自分が自分を大切にしてあげないとなあ、 なんて結論に至ります。 自分のことは、決して誰かのせいじゃなく、みんな自分がもたらした結果だからね。 自分の道は、自分が良いと思えばGOだし、自分がいやだと思えばNO! ゆみの場合は、そんな単純な仕組みを、ほとんど守れず。 いつも、「相手はどうなんだろう。」「何が相手の幸せなんだろう。」と 余計なことを考える癖があって、自分の道を選び損なってここまできちゃったみたいです。 だから何かあると、友達はみんな、こっちが何か言う前に、 「ゆみちゃん、また考えすぎてるんでしょう?」と言います。 「余計なことを考えるから言いたいことが言えないんだよ」って。 今週も、「で、ゆみちゃんはどうしたいのよ。」って聞かれたら、 ゆみ無言になってしまいました。 わからなくなってました。 自分がどうしたいか言うことって、わがままじゃないの?ってすぐ思っちゃう。 時々前出の友に、「ごめんね、わがままで」って言うと、「へ?何がわがまま?」 って答えが返ってきます。 そっか、自分の意見を言う事は、わがままってワケじゃないんだよね、 と少しずつ学んでいます。 だけど。。。 本当はこうしたいの、こうなりたいの、 って言ってみても、相手がいるときは 相手に負担になるかな?と考えてしまいますよね。 実は誕生日までに、自分改造しようと思って、かなりいろいろ考え直してみたんだけど、 やっぱりわからないことはわからないまま。 急に性格を変えることも出来ず。 まだ子供だから、未熟でスミマセン、と言えない年になっていくのに。 完熟、と言うわけにはいかなくても、もう熟し始めてないとおかしい年齢です。 自分のことも面倒見きれてないのに、人のことばかり考えてるから、 きっとどんどん自分を見極めるのが遅れちゃうんだよね。 と言うわけで、今からでも、気付けばそれは、決して遅くはないはずなので、 ここからは、自分をしっかり面倒見てあげましょう、って思いました。 他の人のカウンセリングばかりしてるけど、 ちゃんと自己カウンセリングが出来ないと、大人として恥ずかしいよね。 というまた、ワケのわかんない日記でスミマセン。 ここまで読んでくれた方、楽しいことが書けてなくて、ごめんなさい。 こうやって書いてみると、何人もの人が、ゆみに関わってくれてるって気付きます。 あれ?全然一人ぼっちじゃないじゃん。 そうそう。時々孤独に陥るのはどんな人にもあることなんですって。 そういうときの面倒もしっかり自分で見てあげられるのが大人なんだね。 これからは是非・・・大人の階段登っていきましょ。 一歩一歩を大切にして。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年06月08日 02時02分14秒
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