ステッセルの愛馬鳥取県赤崎に
幼児の思い出で、終戦時の水師営の会見、乃木大将とロシアの将軍ステッセルを想起しました。 70数年前の思い出が、現実味を帯びて鮮明に展開しました。 水師営の会見で、ステッセルが、愛用のアラビア産の牡馬を乃木大将にプレゼントしました。乃木大将は、その志をうけ、ステッセルの名をとり、寿号と名つけ、軍規に則り、戦役中は乗用し凱旋後に払い下げをうけて自分のものにしました。 この寿号が、鳥取県赤崎町の佐伯友文氏の所に乃木大将から贈られて子孫繁栄のために来ていたことを知りました。 以前、倉吉大宮の公民館長さんが、乃木大将の馬がいたお家だと、赤崎の大きなお家を教えていただいた時は、愛馬の余生をおくる目的だとおもっていました。 この馬がスッテッセル将軍愛用の馬だったとは。 明治38年(1905)1月5日が水師営会見 明治39年(1906)に乃木大将凱旋、同年赤崎佐伯氏のところに贈られてきた。 乃木大将は、自分が乗馬するのでなく、アラビア産の名馬育成を願って佐伯氏に贈られたようです。その子孫、白い「乃木号」が乃木大将に贈られたようです。 そのご、この寿号は、大正4年(1915)に島根県隠岐島の村上寿夫氏に贈られ海士村渡辺淳三氏方で飼育中に大正8年(1919)5月27日に、亡くなったといいます。馬令23歳。 海士町の丘の上に、寿号の墓碑があるそうです。 ロシアの方を向いて建てられているそうです。 そして、その後ろに、あの水師営の所にあったナツメの木が植えてあるといいます。 米従軍映画技師が会見の様子を撮影したいと申し込んだ時、乃木大将は、これを断り、勝者、敗者でなく、両者が打ち解けた姿を撮影させたといいます。 前列にロシア人、日本人1人ずつ地面に座らせ 2列目の椅子に、左からろしあ、レイス参謀長、乃木大将、ステッセル将軍,伊地知参謀長 どこからみても優劣がつかないように配慮して座った。 3列目には真ん中にロシア人2人、その外に日本人2人。 昨日、今日、時を混同して、日本っていいなあ」なんて気持ちが一杯です。