天神野の里見忠義公
今をさる400年昔のこと。 安房守忠義が神坂在住のころのある年の三月十日のこと、家来正木大膳を先発隊として一行は野武士狩りに出かけた。 野武士の顔見知りの権六を牢屋から引き出して十数名の部下とともに天神野を指して一足先に出かけた。 やがて巳の刻(午前10時)安房守忠義は、狩装束姿いかめしく練り出した。戦国時代もようやく太平の世となったものの、倉吉の近郊には野武士が出没、民百姓をおびやかしていたから、この地を所領することになった里見主従の野武士狩りは、このころの日課でもあった。 秘密のうちに手配しなければ逃亡されるおそれがあるので、この日は町役人・村庄屋をも引き連れの桜見物の体ともみえた。 あるいは、野獣狩りとも思えた。 「お若い殿さまだったのう」 と、道の両側で頭を下げて一行を送った倉吉の町の人たちは、口ぐちに話した。 まだ20歳をいくつもこえていない忠義であった。 小鴨川を渡り、丸山・生田を経て北野天神の森に到達した一行は、先発隊からの知らせの狼煙を待った。 この間一刻を利用して森の中、天神の宮に武運を祈った。 境内の桜はまだ5分咲き、若い武将が床机に腰かけている姿は、正にりりしきものであった。(倉吉風土記 安藤重良 )―――関金町誌より 関金山守の地にある里見安房守忠義公の終焉の地の御廟