里見忠義公の正室桃源院(東丸さま)
忠義公の正室桃源院さまは、大久保忠燐の孫姫。 父おやは忠常、里見に嫁いで翌年他界、母は家康の孫娘於仙。 幕閣の騒動起こり、大久保忠燐の失脚あり。 連座の責、里見家にもおよび、里見忠義伯耆倉吉に転封。 2人の娘連れ桃源院、実家、埼玉、騎西の弟忠職に身をよせる。 元和8年(1622)里見忠義、山守掘で死亡。 寛永9年(1632)大久保忠職(ただもと)騎西2万石(埼玉)から、加増されて5万石、美濃加納城に入城。 寛永16年(1639)7万石に加増されて、明石に転封。 忠義公の菩提寺 ”雲晴寺”を、ここ明石に忠職の力かりて、桃源院建てる。 その名も忠義公の戒名、雲晴院殿心叟賢凉大居士から。 慶安2年(1649)唐津(佐賀)の藩主となった大久保忠職、姉の桃源院(東丸さま)を大事にされたようです。2人の娘も旗本に嫁し、東丸さまは、明暦元年(1655)唐津で亡くなりました。享年59歳。 高野山にある忠義公の墓碑の近くに、弟君によって東丸さまの墓碑が祀られてるそうです。もうはなれません。なかよく。 幕閣の騒乱がもたらした因果で、大久保忠燐は、小田原城を放逐されましたが、孫の大久保忠職の跡を継いだ忠朝の代になり、小田原城を拝領することになったようです。