すもう部
終戦時、マックァーサーは、道がつくものは禁止した。柔道、剣道、など武道は、戦意高揚につながるという為か、新制中学卒業して、入学した高校には、相撲部はあったが、柔道部はなかった。 雨が降らんのに、畳の上で雨降り時にすもう練習の名目で柔道が行こなわれていた。部活名は相撲部。 卑下して「雑巾ダンス」とは名言なり。 5段の段位をもつ担当の先生はいたが、生徒の自主練習のようなものだった。 入部申し込んだ。 すぐさま、肩張りあげた猛者が柔道着をきさせ、実地練習ときた。 受け身の練習も教えず、いきなり「足払い」でしかも両袖はしっかり持たずにかけたので、左手を畳についた。とたんに手首が異様な音で脱臼してしまった。 相手は顔真っ青になり震えてる。2重になった手首を、右手で持ちヒッパリ、近くにあった卓球台の上におきマッサージをして修復した。医者にいったら、元にはいってるとのことで、添え木をあててもらって帰った。その夜の痛かったこと。引きちぎるような底からの鈍い痛さだった。 たった1日で柔道は終わりとは不服。猛者は、とっても顰蹙してる。 痛みが和らいだ時から、寮にいたので、朝早く道場に行き、隣の部のボクシングのサンドバックをひっぱりだして、その上を転がる受け身を練習しはじめた。左手は添え木をつけたまま。 痛みがとれ添え木を外した時は、上手な受け身ができていた。今でも右の受け身だけしかできない。 ところが、どうもこの脱臼が骨折があったらしく、外科医者さんだったので、漏れたようで、今になって後遺症がでる。命には別条ないが、10代の記憶がマクァーサーと一緒に鮮明になって思い出させる。 天草島には、橋がかかり、陸続きになったが、今も汽車も電車もない。 用がなかったら、本土にでかけない。まして戦中は論外だ。 だから汽車も電車も見たことがなかった。 高校2年、昇段試験にいった。船をおり、三角で汽車にのった。 他の連中はそうでなかったが、実物をみたのは初めてだった。「これが汽車か」内心でうなずく。 熊本の街はにぎやかだった。 電車にも乗った。夜、宿舎で寝てても、車や電車の音が遠くでなり、やまなかった。 試験は5人組になり、選考試合があった。広い道場で、数組の試験だった。 田舎ものの顔せず堂々となんて自分に言い聞かせてのぞんだ。 3人にはどうにか勝ったが、最後どうしても勝てない。初めて寝ころび足を相手にかけて巴なげをしたら、試験官のテーブルの上にあいてが飛び、1本。黒帯をいただいた。 こんな10代の記憶、左手の手首が最近痛むので思い出す。若い日もあったんだと。 威張りの猛者は、関西に転校したが、5年前に他界したとの報があった。