再三申すが倉吉の中心にまだこの看板がたっている。
何故、里見忠義、伊木忠貞の項目を入れないのかということだ。
史料が少ないことは事実であるが、里見忠義にしては、房総から国替えされてきて、しかも幕府の扱いが尋常でなかったことは事実だが。
かの地で書かれた、里見忠義の小説での、池田の家臣、つまり伊木三十郎家老率いる伊木家臣が、槍でつついて、家から主君忠義を外に出したとあるが、これは作者が取材に倉吉に来て、博物館はじめ資料を求めて行った現在の面々の印象だと信じる。それが、まだこの看板をゆるしてることだ。
1622年に里見忠義はなくなった。その扱いも暑い時に1か月も江戸の家老の仕儀を待ち、放ってるような仕儀だ。僅か15年の伊木治領でも1632年までいるのだから、こんなどさくさはありえない。
姫路城普請奉行は、忠繁で忠貞の父、実際に監督したのは伊木半兵衛。その家臣たちは精鋭であるはずだ。
国替えで加古川の渡し場での米子家老の刺殺事件も無事に処理した伊木家老。房総からの冷や飯食わされた先人を大事にしても、粗末にはあつかわないはず。
こんなことを明らかにすることが出来なかったここの地の文化人の責任である。
房総の人にお詫びをします。