小鴨元清は、伯耆の国、倉吉の岩倉城の大将。
毛利の吉川元長の攻撃によって、負けた。
時は天正10年5月25日。
彼の勇士12人の内、杉森善右衛門家昌は深手を負い進退叶わず、館の内にて切腹する。比の甚五郎清照やがて之を介錯し其身も共に切腹す。
永原玄蕃、城に残り表門の櫓に登り、散々に射る。
寄せ手の立花伊織が士卒の持つ楯に射立つる矢文あり
一筋に思いきる矢のあずさ弓
また引き返すこころなけれど
各々是をみて、扨ては左衛門尉切腹と察したり。
去るほどに城中は一円に煙気充満し、櫓門殿舎悉く灰燼となり、五百余年伝わりたる名城此の時に滅亡す。
これは伯耆民談記 松岡布政にある岩倉城落城の描写で、家老永原玄蕃の死を元清と寄せ手は間違えた。裏手の山から小鴨元清は、羽衣石へおちのびた。
左衛門尉元清は羽衣石の城に客と為てありけるが、舎兄伯耆守元継、天正16年の冬より中風を患い、上方の勤務、諸の公務悉く元清変わりて勤務せり。同19年伯耆守卒去し、嫡子中務少補元忠、幼少なる故元清後見となり、家事国政等を執行す。
朝鮮人の時も1500人の人数を引具し渡海しけるが、元忠成長の後は倉吉打吹山の麓なる湖山に館舎を構え居住して代官の如くに近郷を守備し居たり。
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最終更新日
2021年02月24日 18時41分34秒
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