大方10年近く前、松崎の喫茶店でパンフレットをいただいた。
それは、地元の方の歴史調査報告でした。
「東伯耆の戦国時代 羽衣の里戦国武将南条元清の生涯」 それによると
西暦1592年の朝鮮出兵に南条元清城代として1500の兵を連れて朝鮮へ出兵。
甥の元忠との家督争いを避けて南条元清は小西家へ
小西家家老として関ケ原合戦時には肥後宇土城を死守
加藤清正の和睦要請で加藤家家老となる。
加藤清正の遺訓を受け加藤家を辞し単身大阪城へ。
瀬戸内海航海中に発病し京都にて64歳の生涯を終える。
小西行長、加藤清正まで出てくる壮大な地元判官びいきの物語と、当時200年後とは言え池田藩武士松岡布政の調査「伯耆民談記」を信奉してたもので気にも留めませんでした。
ところが、コロナが高齢者蟄居を迫り、古を漁ってる時に、日本海新聞に、北条の島の堤城主の山田出雲守が毛利の萩藩と岩国藩にあったのが同一人物であるらしきとの県埋蔵文化センターの発表がありました。
追っかけていたら、羽衣石の歴史にはいり、小鴨元清にたどりつき、上才原で強盗に殺されたと思ってたら文禄・慶長の役に元忠に代わって自ら1500人の兵を率いて朝鮮に渡り、慶尚道仁道県の領主の子を生け捕るという手柄をたてた。後見人の座をめぐる争いで、元忠との確執が生じ山田越中守の進言で秀吉によって、小西行長の下へ預けられ、此の時南条姓にもどしたという。
関ケ原の戦いでは、小西勢に属し加藤清正の隊と戦うが、家臣一同と同じく投降。戦後、小西家が没落すると6000石をもって清正の家臣に転じ、剃髪して元宅と名乗った。
慶長19年(1615)10月26日死亡。墓所熊本県横手 禅正寺 (ウイキペディア参照する)
かくて小鴨元清の晩年は諸説あり。
南条氏盛衰記は上記の如、伯耆民談記では関ヶ原の戦いの後、美作国へ逃れ、その地で死亡したとされ、東京大学所蔵「南条系図」によれば、元清は「作州才原」に住むとしている。唯これらは、後世に書れた書物にみられるもので、照明する確実な資料があるわけでない。
「南条氏盛衰記」説の方は傍証資料もあり、熊本県に墓石が存在するなど信憑性が高いとありました。
伯耆倉吉では、里見忠義が房総より来たりて、池田藩の伊木忠貞が姫路より来て曹操の歴史展開がありました。
真実は。
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最終更新日
2021年02月25日 11時35分26秒
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