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カテゴリ:日々徒然
昨日の日記のコメントについて、コメント欄では書ききれないと思ったので、記事にさせていただきました。ご了承くださいね。
初めに、 >「学習障害児」この名称が示す通り異質と差別してるのですよね。
これは大きな誤解があります。 私はディスレクシアについてはまったく知識がありませんので、今はK君のことについて書きたいと思います。と言っても自閉症についても講演でレクチャーされた知識しかないので間違っている部分もあるかもしれませんがお許しください。
自閉症は、精神的ストレスなどでうつ状態になったり不安定になったりするいわゆる心の病気ではありません。脳の器質的な障害です。 私が「社会に適応させようとしている」としたのはこの点です。 K君も好むと好まざると社会にでなければなりません。スーパーで買い物もするでしょうし、みんなで旅行に行くこともあるでしょう。図らずも、満員のエレベーターに乗り合わせたり、駅で突然騒がしい団体客に遭遇するかもしれない。そんな時にパニックにならずに平静を保てるようにすること、それがK君の社会への適応です。 だから、茶ま太さんがおっしゃるような、K君の意思云々と言うのは違う次元の話です。例えば、聾唖の人が手話を、盲目の人が点字を習得してコミュニケーション手段を得ることや、足の不自由な人が車椅子の使い方を覚えて社会生活に参加できるようになるというようなことに似ています。 決して、「みんなと同じでなければならない」と考えたことはないし、ましてやそんなことを書いた覚えもありません。 誤解を恐れず言いますが、K君は健常者と同質ではありません。 私が言いたかったのは、そういう彼の健常者とは違った個性を、知らずに偏見を持つのではなく、十分に理解して受け入れるべきだということです。それが転じて、ファンタジウムの良を理解する手がかりになるのではとも思ったのです。 ただ、「社会に適応させる」という言葉がそんなにも強制的な意味合いを持って受け止められるとは思わず、誤解を生む表現だったことはお詫びします。つい、親としての感覚で「子どもに●●させる」という表現は使ってしまうので、親ではない人とは言葉の持つニュアンスにギャップがあるのかもしれません。それと、K君の訓練が、主に集団の中で少しずつ「我慢させる」ことであったために、あえてその表現を選んだということも付記しておきます。(でもまあ、分かりにくかったですね。反省しております。)
さて、次に排斥云々の話です。 残念ながら努力をしない人のほうが多いということは私も承知しています。 でも、そういう人のほうが多いと認識するだけでは駄目だと思うのです。 信ずるに足る親がいれば、信ずるに足る子どもが育ちます。そんな子どもが集まればよい学級になり、良い学級が集まれば、良い学校が生まれると私は信じています。集団は個から出来ているのです。先生を信じる人がたくさん現れれば、きっと先生も信頼に答えてくれる。どこかでそう思っています。 甘い考えだとも思うし、理想論なのかもしれない。でも、先生も学校も信用できないと思う人が大多数を占めるなら、やっぱり良い先生や学校にもなっていかないと思うのです。 今親世代である私が、そして次の親世代(実際作るかどうかは別として)のあなた方が、良くなると信じること、努力することが、次に生まれてくる子どもたちのためにしなければならないことなのではないでしょうか。 何かもう、昨日のコメントのアンサーになっているかどうかも分からないのですが、ただ言いたいことは悲観的にならないで欲しいということです。自分が子どもの頃嫌な思いをしたなら、次に育つ子どもたちに同じ轍を踏ませないようにするにはどうしたら良いか、考えて欲しいのです。それは悲壮なことではなく、ポジティヴに考えること、良くなるように願って育てることに他なりません。
しかし、すみません。こんな超大作になるとは思いませんでした。
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