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2008.03.07
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カテゴリ:日々徒然
昨日の日記のコメントについて、コメント欄では書ききれないと思ったので、記事にさせていただきました。ご了承くださいね。

初めに、

>「学習障害児」この名称が示す通り異質と差別してるのですよね。
>てんてんさんの「社会に適応させようとしています。」
>この文から示すように「異質」としてますし
>気付かないうちに「みんなと同じ」でなければならないとしてませんでしょうか?

 

これは大きな誤解があります。
学習障害児という言葉は差別用語ではありません。差別的に使用すればそうなるのかもしれませんが、この言葉自体は学習障害と一括りに括られたいろいろな機能障害を持つ児童たちのことです。
無論私にも差別の意図はまったくありません。異質と書いたのは、文字通り健常者とは同列には出来ないから異質としたのです。異質という言葉が悪ければ違いが有ると言い換えます。例えば、五体不満足を書いた乙武さんを健常者とは言えないのと似ています。それは偏見ではなく歴然とした事実だということを知ってください。

私はディスレクシアについてはまったく知識がありませんので、今はK君のことについて書きたいと思います。と言っても自閉症についても講演でレクチャーされた知識しかないので間違っている部分もあるかもしれませんがお許しください。

 

自閉症は、精神的ストレスなどでうつ状態になったり不安定になったりするいわゆる心の病気ではありません。脳の器質的な障害です。
自閉症の人は、程度の差はあるようですが、集団というものを認識することが出来ません。K君も個対個なら何でも良く分かるし、記憶力は驚異的な能力を持っています。算数のようにはっきり答えの出るものも大好きでとても良く出来るそうです。
しかし、周りにたくさん人がいて、わいわいがやがやとざわめいているという状況がどういうことなのか理解できない。四方八方から声がすると何が起こっているのかわからなくなってパニックになるのです。

私が「社会に適応させようとしている」としたのはこの点です。

K君も好むと好まざると社会にでなければなりません。スーパーで買い物もするでしょうし、みんなで旅行に行くこともあるでしょう。図らずも、満員のエレベーターに乗り合わせたり、駅で突然騒がしい団体客に遭遇するかもしれない。そんな時にパニックにならずに平静を保てるようにすること、それがK君の社会への適応です。

だから、茶ま太さんがおっしゃるような、K君の意思云々と言うのは違う次元の話です。例えば、聾唖の人が手話を、盲目の人が点字を習得してコミュニケーション手段を得ることや、足の不自由な人が車椅子の使い方を覚えて社会生活に参加できるようになるというようなことに似ています。

決して、「みんなと同じでなければならない」と考えたことはないし、ましてやそんなことを書いた覚えもありません。

誤解を恐れず言いますが、K君は健常者と同質ではありません。
K君の欠落した機能を、さも備わっているように彼と接することはできないのです。ただ、そのK君の他とは同質でない部分(欠落した部分だけでなく、録音するように記憶する才能や、どうやら絶対音感が有るらしいといった才能も含めて)を個性としてあるがままに受け入れること。そして、彼の障害を訓練をもって少しずつ埋め、才能を伸ばすこと。それが彼の周りの人間が努力していることです。

私が言いたかったのは、そういう彼の健常者とは違った個性を、知らずに偏見を持つのではなく、十分に理解して受け入れるべきだということです。それが転じて、ファンタジウムの良を理解する手がかりになるのではとも思ったのです。

ただ、「社会に適応させる」という言葉がそんなにも強制的な意味合いを持って受け止められるとは思わず、誤解を生む表現だったことはお詫びします。つい、親としての感覚で「子どもに●●させる」という表現は使ってしまうので、親ではない人とは言葉の持つニュアンスにギャップがあるのかもしれません。それと、K君の訓練が、主に集団の中で少しずつ「我慢させる」ことであったために、あえてその表現を選んだということも付記しておきます。(でもまあ、分かりにくかったですね。反省しております。)

 

さて、次に排斥云々の話です。

残念ながら努力をしない人のほうが多いということは私も承知しています。
では努力をしない人のほうが多いという、その「人」とは誰のことなんでしょう。
それはあなたであり、私なのだと思うのです。それぞれ一人ひとりのことです。

でも、そういう人のほうが多いと認識するだけでは駄目だと思うのです。
「手を差し伸べる努力をしない人のほうが今は多い。けれど、やっぱり誰かを(先生や学校や親や友達。誰でも良いけど。)信じたい。」という方向に、一人でも考え方を変える方向に出来たら、いつか何かが変わると思うのですよ。

信ずるに足る親がいれば、信ずるに足る子どもが育ちます。そんな子どもが集まればよい学級になり、良い学級が集まれば、良い学校が生まれると私は信じています。集団は個から出来ているのです。先生を信じる人がたくさん現れれば、きっと先生も信頼に答えてくれる。どこかでそう思っています。

甘い考えだとも思うし、理想論なのかもしれない。でも、先生も学校も信用できないと思う人が大多数を占めるなら、やっぱり良い先生や学校にもなっていかないと思うのです。

今親世代である私が、そして次の親世代(実際作るかどうかは別として)のあなた方が、良くなると信じること、努力することが、次に生まれてくる子どもたちのためにしなければならないことなのではないでしょうか。

何かもう、昨日のコメントのアンサーになっているかどうかも分からないのですが、ただ言いたいことは悲観的にならないで欲しいということです。自分が子どもの頃嫌な思いをしたなら、次に育つ子どもたちに同じ轍を踏ませないようにするにはどうしたら良いか、考えて欲しいのです。それは悲壮なことではなく、ポジティヴに考えること、良くなるように願って育てることに他なりません。

 

しかし、すみません。こんな超大作になるとは思いませんでした。

 






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最終更新日  2008.03.07 23:20:26
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