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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:世界・世の中
真・日本建国史「聖地歴訪・日本建国の歩き方」(ダイレクト出版株式会社)
真・日本建国史「聖地歴訪・日本建国の歩き方」(ダイレクト出版株式会社) https://in.newhistory.jp/take3_2307_rsaf (動画あり) 以下、メルマガから転載 -------------------------------- 突然ですが、あなたは「古代日本」についてどのようなイメージをお持ちでしょうか? おそらく、中国や朝鮮から、漢字や稲作などの文化を積極的に取り入れ発展してきたというイメージが強いのではないでしょうか? それは、決して間違いではありません。 なぜなら、私たちは歴史の授業でそのように教わったからです。 しかし、東北大学名誉教授の田中英道先生はこのように仰います。 「古代日本は中国や朝鮮など、大陸からの文化を取り入れ発展してきた国だと言われていますが、そうではありません。 実は海外こそ、日本に憧れ、多くの人々が渡来人としてやってきたのです」 一体どういうことなのでしょうか? 彼らは日本の何に憧れてやってきたのでしょうか? 今回は、東北大学名誉教授の田中英道先生に日本の魅力と、そこに魅了された“渡来人“について語っていただきました。 ========== From:田中英道 奈良の正倉院は、聖武天皇と光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。 その御物には唐や西域、さらに遠くペルシャから渡ってきた品々が数多く含まれています。 また、多くの文物が大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て日本に流れ込みました。 しかし、それだけなのでしょうか。 日本から向こうに渡っていったものはないのでしょうか。 日本のこの時代に対する歴史観には、日本は文化が遅れていて、中国や朝鮮に学び、向こうの文化を取り入れて発展してきたという観念が抜きがたくあります。 特に戦後、この見方が浸透しました。 その代表例は遣隋使、遣唐使です。 607年に小野妹子が遣隋使として派遣されました。 遺唐使の最初の派遣は630年です。 日本からたびたび唐に出かけて向こうの進んだ文化を学び、それによって日本は発展したという 文脈で語られています。 しかし、事実はまったく違うのです。 たとえば小野妹子の遺隋使のときです。 こちらから行っただけでなく、隋からも位の高い役人などが32艘もの船を連ねてやってきています。いわば「遣日使」です。 唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきています。 その人数がまたすごいのです。 たとえば、669年には2000人あまりの人が来ています。 671年にも2000人が来日、という具合です。 ほかにも、当時新羅は日本に高い関心を抱いていたようで、30数回も来ています。 いまの中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海という国がありましたが、ここからも33回も来ているのです。 遺隋使、遣唐使よりも遣日使のほうがはるかに多かったのです。 では、彼らは何のために日本にやってきたのでしょうか。 ほかでもありません。 日本の文化を摂取するために来たのです。 経済的には日本の産出する銀、絹などの高い需要がありました。 8世紀後半になると日本は金も産出するようになり、 日本への関心はさらに高まりました。 文化的には日本の仏教、それに聖徳太子の思想を学ぶということもありました。 鑑真が日本への渡航に5回も失敗し、6度目にようやくたどり着いた話は有名ですが、鑑真がなぜこれほどまでに日本に執着したのか。 聖徳太子の思想をはじめ、日本に定着している仏教を高く評価していたということが根底にあるのです。 鑑真だけではありません。 インド人、ベトナム人、ソグド人の僧侶も日本の仏教を学びにきています。 奈良時代、日本も唐もその他の諸国も文化的には対等で、相互に学びあい、物を交流させていたのです。 だから、遺隋使や遣唐使と呼ぶのが誤解のもとなのです。 正確には交流使というべきだと思います。 日本にこれほどたくさんの人々が移ってきたというのは、日本の文化が高く評価される水準にあったことを証明しているのです。 -------------------------------- 京都はユダヤ人秦氏がつくった [ 田中英道 ] 日本国史(上) [ 田中英道 ] 日本国史(下) [ 田中英道 ] ユダヤ人埴輪があった!日本史を変える30の新発見 [ 田中 英道 ] 決定版 神武天皇の真実 [ 田中英道 ] 「国譲り神話」の真実 神話は歴史を記憶する [ 田中英道 ] 邪馬台国は存在しなかった [ 田中英道 ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年07月25日 18時29分58秒
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