カテゴリ:幸せな愛
仄暗い間接照明の部屋に白い壁と、寝台の風景。
その寝台の丁寧に光が取り除かれた様子は、部屋の陰画の部分を占めていた。 複数の間接照明から弱い彩度が黒と白の曖昧な形を描き出し、扉のノブだけが斜めに倒影を従えている。天井に広がる陰影が深みを感じさせ村上から他の影は見られない。壁に映る無機質なそれらの模様は、部屋の存在を曖昧にしている。白壁の反射光の温みを薄く纒っているような由紀の背中が、毛布の弛みから覗いている。 肩口に手を差入れて剥してゆくと、緩やかに撓んでいる背骨の浅い窪みが衣擦れの下にあらわになった。指紋の残るのを恐れる注意深さで、指先をその窪みに沿って這わせた。僅かに屈み俯せに横たわる由紀の躰は少年の体躯をしている。痛ましいものを見る眼付きで眺めたが、萎えたままの気持ちを改めたに過ぎなかった。由紀の胸に置いた手を広げた。乳房は指の間で小さな隆起を始める。弱く力を加えると、微かに蒼ざめた起伏に毛細血管が浮かび、薄桃色の繭を思わせた。やがて乳房は歪を増して指の間に絶えまなく反発を繰り返している。躊躇うような目線を首筋につたわせて表情を窺う。見上げる位置の為か横顔は痩せた様に感じられた。 限られた親族に用意される視線だった。村上は自身に向けられるべきではないと嫌悪がたかぶるのを覚えた。掌にある乳暈の量感が霧消し、村上の指は由紀の肋骨を圧迫していた。手のひらに弄ぶライターの、気がつくと体温以上の温みの残る驚きに、手を離した。若い弾性は乳房に波打ったと思うと下肢の強張りが急に溶けた。 「なにもしないのね」 言葉の慰めを避けたい気持ちが無言にしていく。タバコを取ろうとしてポケットに滑り込ませた手の動きが止まった。気配を読んだ由紀は肩越しに見て、諾いた。村上の夜の仕事部屋で慌ただしい時間を過ごす。この部屋でおびただしい辱めの形をとる由紀。男の視線を無意識に辿ろうとするのに気付く。湧き上がる由紀の姿態から村上に用意されたものを読み取ろうとしている。 由紀は次第にあせていく記憶を知らず知らず反趨している。 彼は彼の愛しかたで愛している。かつて私の愛し方で彼に愛されていた。 遅い時間にニュースショーにしろ、スポーツ番組にしろ、ビールもしくは水割を手にして彼自身の時間をくつろいでいる。 彼は今由紀を愛している。妹のように、母のように、女のように、あるいはメイドのように。極めて日常的な会話が交わされる。 「なぜだろうね」 「あなたわたしと愛し合いたいつもりなの」 「それは答えにくい質問だね」 「わたしあなたもあいしてないわ」 「それが解っているから、結局妊娠が恐いだけなんだろうね。私達が寝ない理由はその程度の事情でしかなく、愛し合っていない事実は問題ではないと思うよ」 彼に他愛もないことを話しかけてみる。彼は軽く諾き、無視する。それを由紀はいつものように受け流した。彼は熱心にくつろいでいる。邪魔はしたくない。 「実はわたし、あなたとねたいのよ」 「正確には寝てみたい、だろ」 「どうして」 「彼に抱かれた時はまだ愛していなかったし、抱かれ続けながら思い始めた」 「あのときねてみたいと感じたのはなぜだって」 「それも答えにくい質問だね」 やがて目的を忘れるためなのに気付く。かつて無い事でも自分を納得させるような鎮静を求めている。村上は窓の外を眺めるために立った。 「聞いたらショック受けるわ」 「わかれたとか・・・」 「どうしてそれがショックなのよ」 「喜ぶべきことか」 「それに少し話したい」 「電話ではだめなのか」 手入れを怠れていた女が会いたいと言う代わりに気を惹く為の言葉、避けたい負目、しかし面会の約束を持ち出すと、抱かれたいと誤解されるリスクでも生じるのか、偶然のそれを待っている。手続きを踏むと女は探りを入れて身を躱わして見せる、男の手の届く範囲で。「あなたの風邪がなおったら、会いましょう」幼稚な神経質さで距離感の変化を計っている。 躯が欲しいだけで、心が気にする以上に離れていない嘘の手続き。由紀はその男と区別した。それが応えた。区別出来ない対象の、仕打ちと引き換えに由紀の背徳を期待していた。区別出来ないことを由紀に理解させる必要があった。やがてはその男への優位感だけに会う。負目を気付かない素振りを互いに感じながら。 「視線が問題なのね、普通永くそんな低い視線を落とさないわ」 「そうでもない」 「いつもよ、あなたは低い視線に誰も見つめた事の無い反映を見ることで、取り戻す作業をしているのよ」 「きみ、自分で何を話しているのか解ってるの?」 それは、何気ない仕草。ふとした気配。そしてそのイメージを当て填める試み。 「海を見たい」 「ひとりだったらお連れできるけど、もう遅くてよ。送るわ」 言う通りに走っているが、車は家を遠ざかっていた。やがて見慣れた街並に込っていた。急な坂を登りつめると袋小路がライトに浮かんだ。黙って由紀は右手の空き地へと車を入れ、エンジンブレーキをかけた。重なり合ったレンガの壁が光を反射している。 「彼を愛しているの」 「何故、彼は愛していないんだろう」 「どうして貴方が御存知なの」 「愛なんか口にする歳ではないって事?」 「彼は愛していたわ」 「誰にも解るのさ、貴方の魂が捕まらないのが、彼らは利口なのさ。そこでまず躯を抑えようとするだろうね」 「貴方も」 「でも、押し倒した頃には、欲しかった魂の事など忘れている」 「下品な言い方ね」 「あれは下品な程、優雅な辱しめだろう。次第に品の良さを崩されてゆく。整った顔立ちが歪んた表情を示す。偽りの驚きと恐れと期待が混じって、ほのかな陰影が浮かび上がって来る」 「貴方も、私の躯が欲しいのでしょう」 「もって云うのは、何故」 「重いはなしね、なにか飲みたいわ」 グラスから小さな赤い実を摘み上げると、唇に押し当てた。赤い口紅の狭間に戯れる。艶のある果肉を憎んだ。由紀は赤く染まった目で見つめている。村上は呟いた。 「私のだ」 白い指を、口に含ませた。甘く柔らかな感触を舌に感じ、彼女を抱き寄せ耳元に囁いた。 「キスしていいかい」 「だめ」 「なぜ」 「カウンターのボーイが、こちらを見てるわ」 静かにソファーに沈み、果肉のかけらを唇でその内部へと流し込んだ。仄かな香水の中の微かな匂いを感じると、少し躯を離して、由紀に触れる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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