不意に彼女の部屋に携帯電話を忘れたことに気付いた。
彼女のマンションから彼女の声がする。
「携帯忘れてる」
ベランダで手を振っている。時間は午前8時、僕が彼女の部屋に泊まったことを近所にアピールしたいのかと思った。その瞬間数十年前のある光景が思い出された。
***
僕たちは16歳で、その彼女のベランダで彼女は頬杖をついて僕を見ていた。
僕は彼女を見ていた。
その夜僕たちは彼女の家族のいない彼女の父親の勤務する会社の上級職向けの社宅の、レザーのソファで、一生分のハグとキスをした。 あのはじめて好きな女の子と二人だけで朝まで過ごした記憶は消せない。 彼女はシャワーを浴びて、僕には勧めなかった。
「どうしてキスしないの」午前3時ごろ言われた。
「歯をみがいていない」苦し紛れだった。
経緯からすると、 僕たちはきすさえしたことがなかったとそのとき思い出した。「わたしもそうだからいいじゃん」 そっとはじめてのキスをした。生まれて初めてのキスだった、と思う。
僕たちはデニムのジーンズをはいたまま、三人がけのソファで48手をしていた。
なにかしら器械体操のように
「これきついね」
「けっこうこっちはらくだよ」
などとときおり言葉をかわしながら、
いろいろな体位をした、あくまでジーンズをふたりはいたまま。
「いろいろしってるんだ」
「雑誌で勉強した」
「そういうのも、勉強っていうんだ」
彼女は僕の頬にごくろうさんのチュをしてくれた。
***
見上げると彼女が携帯電話を振っている。彼女はまもなく20歳になってしまう。
昨夜は彼女のPCのメンテナンスで、彼女のワンルームマンションに来ていた。
社会はなにもなかったとは考えないだろう。
午前4時頃彼女はピンクのチェックのカバーのBEDにヨコになったが、
僕はよばれなかった。
やさしいHUGが二人のすべてだった。
だれも信じない真実。
ただ僕の技術をしても徹夜でもそのアプリケーションは起動しなかった。
疲れ果てた僕に、眠そうな彼女は社長のようにいった。
「めどはたったの?」
僕は状況は説明できたが、状況は問題でなく彼女は結論を必要とした。
それは6時間遅れで、当初の予定を大幅に遅延して、
たのしいはずの共有されるべき時間を吹き飛ばしていた。
そのような不具合のリカバリーを、期限付きで、
いつ果てるか知れない作業をしながら、暗くした部屋で、
眠りにおちてしまった彼女の寝顔を見ていた。
化粧を落とした彼女は、愛らしい少女の表情をしていた。
その景色をDISPLYの向こう側で飽きもせず眺めていた。
ふと詩ができた。
切ない あなたの 白い肌を 見ていた。
午前四時のあなたの部屋は 静か過ぎて
ここで あなたはあなたの孤独と戦っている。
だからもうそれ以上強くならないで
だからもうそれ以上優しくしないで
午後5時とても寒くなった。おそるおそる彼女に聞いた。
「よこにはいっていい?」
「いいけど、ハグはだめ」
背中を向けた彼女の温かさが僕に染み込んできた。
僕はそっと寄り添った。彼女は眠ったふりをしてくれていた。
それがその夜起こったすべてだ。
翌朝、彼女が開けた、雨上がりの気配の、
窓の外は、高原の朝の風が吹いていた。
僕は幾つかの朝の風景を思い出していた。
「わたしは恋愛の対象ではないのね」
「え」
私は不意をつかれて、困惑した。質問の意図が判りかねた。
その言葉はなぜ愛さないのかと聞いている。
「愛がたりないね」
「うん」
そういった無計画な初心な男は純粋に恋愛に恋愛していた。
彼女達を物扱いしなかったし、彼女達が僕以外の男をSEXの相手に選ぶのなら
それはそれまでだった。そうして二つの夜は明けた。
***
16歳の僕は日曜日の模擬試験のために仲間との合流地点に向かった。
仲間たちは寝不足な僕になにもいわなかった。
16歳の僕たちはそういったシュミレーションのあとで、普通の大人のように、
ぬきさしならなくなって、彼女は僕の嫁になると回りは考えていた。
僕の一浪がきまったとき、天神のスクランブル交差点で、彼女がつぶやいた。
「あなたは、高望みしすぎなのよ」
たしかに落ちた文学部はそういったところだったが、
ふと、私はあなたにふさわしくないと言われたような気がした。
やがて僕は郷里を離れ東京に消えた。
23になったとき彼女の実家に4年ぶりに電話した銀座の公衆電話BOXをわすれない。
「あのこはおよめにいきましたよ、ちょっとまってね」
彼女のおかあさんは彼女の嫁ぎ先の電話番号を僕になぜか教えた、
同窓生でもないのに。
数年の後、実家でふとその電話番号のメモが出て来た。
しばらく夕陽のさしこむ応接間で迷って、かけた。
懐かしい声、赤ちゃんが泣いていた。
「おめでとう」
「ありがとう、女の子よ」
「そうか」
僕は夕陽の応接間で、絨毯に落ちていく涙をみていた。
「あいたいね」
「むりよ」
「どうして」
「わたし、ふとっちゃったから」
「そか」
それが最後の電話だった。知り合って三ヶ月で製薬会社の男と結婚したといった。
僕の青春が幕を下ろした。彼女は僕でないほかの男にだかれた。
その現実をまだ受け入れられないというか、信じる事ができない。
***
「どうしたの、怖い顔してる」
携帯電話を差出ながら、ドアの向こう側にその彼女がいるような気がした。
「ありがとう」
「だいじょうぶ?」
「うん、疲れた、HUGして」
彼女は宥めるようなHUGをして、ドアが閉まった。
この恋も中学生の淡さで終わりを迎えそうな気がした。
雨上がりのアスファルトを見上げると、彼女が頬杖をついていそうで、振り返りもせず、小雨の東京の道を小走りに急ぐと、なぜか涙がでてきた。