カテゴリ:だから
僕は寂しがりやなので、浴室が嫌いだ。白い壁以外なにもない殺風景な浴室にいると、さまざまな記憶が蘇るからかもしれない、あるいは、一人で浴室にいくようになって、つまり彼女というものがいなくなって数年になるからかもしれない。うつくしい女性と入浴することは、楽しい。男女はそうなるまでにある程度のその親しみがなければそういった場面はありえない。 資生堂の椿のシャンプーとトリートメント、花王のダブのボデイソープと小さな洗顔料。それ以外この浴室にはなにもない。 記憶はかさなりあって、湯船に沈んでいると、やがて美貌の彼女たちが語りかけてくる。 「貴之なにしてるの」 「京都はたのしいの」 「今夜はどこにいくの」 僕は湯船に潜り込んで、彼女たちの残照のリフレクションに、苦しんでいるのか、楽しんでいるのかわからなくなるのだった。 湯船から顔をあげると、しらない女の人が、僕を見ている。 「背中ながしましょうか」 そういいながら、友禅を着た彼女は角帯を解きはじめる。 僕はもはや夢か現か考える余裕もなく、ただその脱衣の様子を指をくわえて見ている。 浴室にその着物を脱ぐ衣擦れの気配がとまると、湯殿にその女は入ってきた風情で、僕は伏目のまま、背中をながされるままに、じっとしていた。 女は明るい色のタオルを腰に巻いて、僕の背中を流し始めた。 「こちらを、むいて」 声は低くもなく、つよい印象でもない。 「え」 僕は、体をまわして、ゆっくりと振り返る。 と同時に、女は乾いたタオルで、僕の視野をさえぎった。 されるがままに、体をあわられる。 「いつきたの」 「ずっといたわ」 「どのくらい」 「5年くらいになるわ」 「きみは、人間なの」 「でないと、困るでしょ」 「平気さ」 「そう」 「見てはいけないの?」 「いけません、私をごらんになると、惑いがうまれるでしょう」 「いつも食事の支度をしてくれているのは、あなたなの」 「いいえ」 「どうやって、はいるの?」 「鍵はいつもあいています」 この女は、私の身の回りの世話を、私の許可なく、気付かれないようにしている様子だった。 声は聞き覚えがなかった。しかし浴室にあらわれて、会話をしたことの奇異さを感じないでいた。 ふと気付くと、シャンプーは、ビダルサスーンに変わっていた。 「食事はあなたがつくっているの」 「食事は私の担当ではありません」 「だれなの」 「あなたには、見えないだけです、ながしますね、あちらを向いてください」 洗車されている気分で、僕は僕じゃなくなってる感じがしていた。 「湯船にお入りください」 僕は湯船に入って、ゆっくりと振り向くと、だれもいなくなっていた。 念のため、シャンプー置き場を見る。ビダルサスーンだった。 すこし湯あたりなのか、ぼんやりとした気分で、もうどうでもいいような感じで、浴槽のなかに潜ってみたが、とくにかわりばえのしない、浴槽の底が見えただけだった。 ある日、浴室の、夢をみた。僕はいつもの浴室でいつものように壁をながめていた。その白い壁には、なにも意味がなかった。ただ白い壁を浴槽でながめているわけではない。 その白い壁をながめている視野の、片隅にちらちらと湯女の、手桶に泡立てている資生堂石鹸の泡が、ソフトクリームのように、むくむくと肥大化していくのが、見えた。 見えたと書いたが、それはあるはずのないソフトクリームのようなもので、やがて、白い壁の風景を飲み込んで、白い壁の風景のなかのブリザードのなかに遭難している状況になった。 僕はその白い泡につつまれて、すこし、その白いものを、そっとなめてみた。 なんかバニラの味のような気がした。 気がしたと書いたが、たべたわけではない。そしてたべてみることにした。 バニラアイスのなまぬるい味がした。 すこし僕はこわくなって 「だれかいますか」 と いった。 「だれもいませんよ」 湯女がこたえた。 「だれもいないということは、あなたとわたしふたりきりですか」 と きくと。 すこしためらう気配で、 「いいえ、あなたひとりきりですよ」 と答えた。 「あなたはだれですか」と聞こうか迷っていると 目がさめた。 そこは、ソファの上で、たべかけのバニラアイスをさがしたが、どこにもなかった。 念のため、浴室をみたが、そこにはただ白い壁があるだけだったし、バニラの匂いもしなかった。 ふと人の気配を背後に感じたが、僕はこわくなって、ふりかえらないでいた。 「どうしたの」 だれかの声がしたような気がしたが、ぼくは聞こえないふりをした。 湯殿に頬づえをついて、かの女の体をあらう様子を、みている。 その浴室は、六本木の高層マンションの、一室で、その女は、交差点でひろってきた。 かの女は、さきほどから、念入りに、指先を洗いつづけている。その指先を、見ながらこういった。 「わたしたち、こうなったら、ここでくらしましょう」 「こうなったら?」 いったいどうなってるんだろうと、僕は素朴に、頬づえのくみなおしながら、 「それプロポーズなの」と聞いた。 「そうね、ここ気に入ったわ、あなたもいい仕事してるし」 「仕事?」 一時間前、東京タワーを見下ろすベランダで、バカラにモエを注いで、初めてのキスをした。それは午前3時で、僕たちは二時間前に、西麻布のクラブで、知り合ったばかりだった。 僕は、その女の、そういえば、まだ、名前もしらない女の、体の線をみながら、こういった。 「いいよ、明日区役所に行こう」 「そうね、それがいいわ」 たぶん僕はどうかしていたのだろう。その頃の僕は、人生なんてそんなものだと思ってた。 翌日、戸籍届をだしたあと、僕たちの不思議な生活がはじまった。 そう、僕たちが、一日の大半を、その浴室で過ごすことになるとは、夕暮れの区役所から、帰り道に祝杯を上げた、ホテルオークラのバーで、彼女のさらさらした髪をさわりながら、僕は思いもよらなかった。 そして、そういった僕たちの生活が、はじまった。 浴室にいるとだれか帰ってきた。ふとだれか帰ってきたと思うことが変な感じがした、というのも独り暮らしして久しいのは前述の通りだが、その女の帰り、あるいは訪問を待つという感じの、時制がシフトしている。 いったいだれが帰ってきたのだろう、僕はシャワーをとめて、幾人かの女を思い出そうとしたが、その表情すら、のっぺりとして、思い出すことはできなかった。 彼女たちの、様子は、紙袋を抱え、そういった夜の始まりだったわけだが、それらは愛でなかったという、脅迫観念から、ふりはらうように、あたまをふってみたが、すこし軽いめまいがしただけだった。 朝のシャワー、つかれるほど体を洗うが、不浄が清められたかは不明である。浴槽に沈んで本を読む。まだ世界は眠っている。本は安寿と厨子王。よみながらナショナルセキュリティを思った。 浴室、そこは比較的安全な場所だったはずだ。ここにいさえすれば、電話もならないし、不意の訪問者もない。 が、着電のあらしと、やはりこんな時間なのに、ドアベルは鳴る。 浴室、そこになにかあるのかというと、咀嚼する幸せの場所なのか、慙愧の念と立ち向かう場所なのか。しかし、不浄の体というのは、その女たちに汚されたということなのか、ふとその想念が浮かんだ、我々はいったいなにを浄化しようというのか、無地のシーツはふたたび洗浄とアイロンを必要とするのに、我々のしわくちゃな情念というものは、どういったアイロンでチェックインした直後のリネンのように回復できるのか、僕は湯あたりして、BLOGをかくために、タオルを肩にかけ、その浴室を出た。 僕は浴室で読書をすることになった。 湯船で読書をする僕はときおり本を浴槽に落とした。 無残に干からびたような書籍がすくなからず本棚にある。 だからといって僕が読書家であるかというとそうでもない。 作家は人の本など読まない。読む時間があれば書いているし、僕は自分の書いたものすら読む機会があまりなく、ときおり読むとその凄さに感動してしまうのであった。 そのように 浴室にいて本来なすべきことを放擲して、読書にいそしむのは、気を紛らわすためである。 しかし どうしたものか 古ならば 湯女があらわれ、奉仕を受けているだけでいいのではないだろうか。 「湯女か」 僕は湯船をでて、その職業をしらべてみることにした。 湯女の 洗い髪の たゆらかなに すすぐ 湯女のながす 湯音の やすらぎの 夜の時間に 僕は うっとりしている。 「はい湯女派遣サービスです」 丁寧な印象の受付だった。 「日時を指定してご予約をうけたまわります」 その女の出した名刺にはこうあった。 「株式会社湯女サービス」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 28, 2007 03:39:09 PM
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