カテゴリ:だから
一昨年、旧友が亡くなって以来身辺を整理している。旧友の伝言を知らずに生きてゆくのに耐えがたかった。重ねているのに耐えがたかった。 誰もいない週末があると一日の長い重さを思い知らされた。村上の主治医は、村上の三十二年かけて患っていることを、三十二年かけるくらいの気長さで、うまくつき合っていくのが良いと言う。 村上の失敗した最も長い人間関係とは、自分自身とのそれなのに気付いた今は、聞き入れることもできない。 秋子の変わってゆくのを眺め過ごしていた。少女の容子はやがて秋子の回りから薄れていった。傍観の位置を動こうとしなかった。村上の生活を眺めているにすぎない。村上は意図もって秋子の判断に委ねさせるこみともあったが、秋子は躱し、決して手を出す事はなかった。村上は、理解のないことに慰められている。関係はあるが関与していない。村上は関与されるのを望んでいない。 女達は関係し、踏み込み納得のいくまで関与し、誠実を待ち、期待はずてその人物を必要としない恋に気付いて別れる。不思議に彼女ら自身の村上の生活に場違いのようで、自分の必要ないという認識にかけた能力を持っていた。しかし、前から消えた。 雨の中に降る雪の白い輝きは汚水に流される為に降り続く。週末に、由紀を呼ぶ。 秋子は、部屋の女の気配を当然のものとして受け入れている。秋子がいない週末なのか、由紀のいる週末なのか判らない。 秋子は、週末に過ごす相手がある。気にする処はない。秋子は、恐れた。秋子には重く感じられる自由があった。しかし秋子は、不自由を望んでいた。息苦しい自分勝手な愛情を求めている。不安定なまま放されている様な冷めた心遣いだった。拒めば、そこには何もない。受け入れた時初めて秋子は所有できた。しかも秋子のものではないのが辛く思えた。 何も与えない。与えられない事で覚悟を求められている重みがあった。笑顔を見せなくなっていた。持ち応えられなくて、倒れ込むのを耐えている様子に秋子は映っていた。会わないことで、慰むのではないかと思う日が幾度かあった。責うことを避け、償いを混同している思い込みの感情を省り見る事も無い日々。秋子は、愛していない。 照明は秋子の髪に暗褐色の光沢を流れるように注いでいた。秋子の体臭が漂いぼんやりとした視線を投げかけている。秋子は、内側に深く折れ込んだ人差指を肩越しに見ている。躰に置かれた他人の視点を辿ろうとする姿勢は、疎ましく思えた。秋子の生活に踏み込む代わりに、僅かな時間を置き換る秋子を何故か憾む気持ちがあった。誰を愛しているかを聞いた。避けて通るのでなく、明らかにすることで秋子に愛される能力が無い事、あるとしても片手落ちの、当事者でない村上を萎えさせているのを教える必要がある。その作業がなければ、操っているが不安定になるのを免れず、そのために秋子を不安定にする立場を維持したいと考えている。秋子に関して優位に立つ必要があった。相手の譲歩を見定めてからでないと、自らのそれを認める事は出来ない。そして秋子を鎖ぎ止める意図はない。愛してくれない女と宥め合うような抗えない距離でのみ関係できた。それは秋子に必要のない関係を証す手順に過ぎなかった。秋子は無になにが出来るかを考え始めている。用意された楽しみを与えられ、それに従う。秋子はそれに従っているのではなく、村上の読んだ秋子の思い通りに案内されているに過ぎないのに気付き、村上の冷たい優しさの意図が案内することで充足しているのを見ていた。 湾曲した白塗の壁が暖色の布張りのベルベットの座席を囲む部屋に隔てられたレストラン。窓際に沿ってテーブルが配置されている。 秋子の肩越しに奥の壁鏡を眺めながら食事をした。暗がりに交差点が見えている。室内の風景の向こう側の景色は一人で食事している気持ちにさせた。 流れる車の明りの、交差点の気配を際だたせて暗がりが戻る繰り返しを眺めている。 「恋をしたら、教えてくれ」 「どうして」 「用意がある」 「あなたは考え過ぎなのよ」 「僕もそう思うよ、思わせぶりな言い方はきみのほうが得意だ」 感情を高ぶらせる受け答えをした。それに秋子が応じた。 「声をかけられたのよ、学生だったわ」 「それで」 「それで」 「お茶を飲んだ」 「お茶を飲んだ訳」 「珍しいね、きみが乗るなんて」 「暇だったから」 「いずれにしろ退屈だった」 「いずれにしろ、退屈だった。たいくつ。あなたとわたしみたいに」 「退屈紛れに会うのかい」 「なぜわたしと会うの」 秋子はどこか焦りを抱え込んでしまったような真撃さで問いかけた。 「目的を知りたいのか」 「退屈紛れでないことは確かだわ」 「恋をしたのよ」 「それで」 「どうすればいいの」 「話したい事をだけをはなせばいい」 「あのね、わたしね、あなたとわかれてね、あなたに恋したい」 「まあ、相手の希望もある事だしね」 「わたしは片思いなの」 「それはきみが決めることだ」 「わかれるなら、なぜ誘ったの」 「わかれないなら、なぜ来たの」 「きたのが間違いなのね」 「そう思うのならそれだけだ」 「要するに別れたいのね」 「壊れるものは壊れる」 「好きなものは好きだわ」 「それはそれでいい」 「何かの間違いなの、あなたすこし優し過ぎるわ」 肩先を過ぎる視線を無視した。 「抱きたいと言われたいのか」 眼鏡を外しながら低い声で言ってみた。口元にクロスを当てた姿勢のまま隣のテーブルに鋭利な視線を振った。強度の近視特有の曖昧な輪郭、濃いベルベットの座椅子のフレームの中、秋子の小さな両肩が滲んでいる。 秋子の仕草に村上は見えているような気がした。それ以上の追確認は不要と思っていた。秋子の譲歩を読み取る処で二人の作業の終りを感じ取っていた。秋子と合うのに理由づけを用意している自身に蟠りを覚え始めている。 サラダの小蝦をフォークの先で転がしている。白磁のサラダボールの傾斜で、小蝦は同じ所を行ったり来たりしている。気持ちが悪くなったといって殆ど手を付けていないままのサラダは、異様に多い量の海産物で盛り付けられている。薄暗い照明の下で、それらは汗ばんだ様な艶をしている。村上に子供は好きかと聞いて、好きではないと答えた時と同じ怪訝な表情で、蝦を転がしている。 「あなた、遊びのつもりなの」 「きみを」 「だれを」 「誰が遊ばれているのかな、遊び遊ばれる、どちらがそうでなく、譲歩し 、されているわけでもない」 「なにものぞまないのね」 「つまりね、わたしたちは何か慰めを求めていると思う。互いの失敗を認め合ったうえでの」 秋子の深みを計りかねて、フォークとナイフを揃える形で皿に置いた。そしてある回復の試みが誤りかけているのを認めた。差し替えるべき言葉を捜して語り掛けようとしている。クロスで口元を拭いながら中空に投げられたままの秋子の視線を辿ると、窓の外の交差点型に区切られた静かな街並みを斜めに横切った。人影の疎らな街は幾らか寛いでいるように見えた。 「性急すぎるのね、状態のよくないときのあなたの兆候だわ」 「主治医と会食しているみたいだな。僕達に必要なのは慰みでなく、責任不在の会話かもしれないね、先生」 「責任」 秋子の抱えているイメージを操作する愉しみを通して、快適に歪曲する鏡のようなものを、利発的な秋子に重ねているに過ぎないことも、絶えず返答を意識しながら対話を組み立てていく姿勢も、むしろ生活を させる方向は、単なる通気孔のようなものに位置づけられていると考えていた。だが次第にその通気孔を通してのみ呼吸が可能な状況に追い導いて行こうとする自身に戸惑っていた。奇妙な鎮静に衝かれ閉塞から逃れようとして秋子に会うのを躊った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jun 17, 2007 11:30:58 AM
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