L'Oneiropompe / 夢先案内猫
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パリで育った私は、マルグリット・デュラスの本を読んで、 翻弄され疲弊したデュラスの家族と 中国人男性に抱かれたフランス人少女デュラスを想像した。 今、中国に仕事で出張する私は、多くの小姐たちを見ている。 仏領インドシナでのデュラスのように、 生きている女たちなのかもしれない。 デュラスの自伝的小説の下記の3作が、当時のデュラスを明かしている。 『 太平洋の防波堤 』原作本 『 愛人(ラマン) 』 映画 原作本 『 北の愛人 』原作本 『 愛人(ラマン) 』の映画化に際して、 映画監督のジャン=ジャック・アノーと 脚色を依頼された原作者デュラスは、 映画の全体的ヴィジョン等で意見が合わず、決別している。 『 愛人(ラマン) 』映画の封切より2年後に、 デュラスが自分で改めて映画化する権利を留保したらしい。 この過程の中で、デュラスは、愛人だった中国人男性の死を知らされる。 そして、書き上げられたのが『 北の愛人 』。 あの中国の男の死、あのひとの身体の死、あのひとの肌、 あのひとのセックス、 あのひとの手の死が起ころうなどとは想像もしていなかった。 1年のあいだ、わたしはヴィンロンの渡し船に乗ってメコン河を 渡ったときの年齢に戻っていた。 ・・・・・・・ 私は小説の作者に戻ったのだ。( 『 北の愛人 』前書きの抜粋 ) 当然、私は『 北の愛人 』の方が、 デュラスの意図したものになっているのだと思う。 更に、文中には、幾つかの注意書きが記されている。 例えば、こうだ。 僕は、どうやらキミに夢中になりだしたようだ・・・。 少女の眼の中に、ある種の危惧。彼女は黙る。( 注意 1 ) ( 注意 1 ) この本から映画をつくる場合、 少女はただ単に美しいという風であってはなるまい。 そのようだと、恐らく、映画に危険な結果をもたらすだろう。 この少女の中で作動している何か他のもの、 「どうにも避けようもない」もの、荒々しい好奇心とか、 教育の欠如とか、そう、内気の欠如とかいったものが問題なのだから。 少女のミス・フランスといったような女だと、 映画を全く崩壊させてしまう結果となるだろう。 それどころか、更に、映画は消えてしまうだろう。 美しさは何も生み出さない。 美しさはこちらから相手を見つめはしない。 美しさは見られるだけだ。 これらは『 愛人(ラマン) 』の監督ジャン=ジャック・アノーと 原作者デュラスのヴィジョンの相違点でもあったと思う。 『 北の愛人 』は、映画化されていない。 いや、する必要がないのだろう。 ここまで、細かく記されているのだから、 作家は、読者の想像力に任せているのだと思う。 実は、本当に書きたかった事は、こんな事ではない。 書きたかったのは、トマス・ハリスの事。 映画『 ハンニバル 』では、全く違うエンディングにされた。 妹ミーシャに関する部分は、映画では全く用いられなかった。 だから余計に『 ハンニバル・ライジング 』の執筆が必要だったのだろう。 更に今回の映画『 ハンニバル・ライジング 』では、 自身で映画の脚本も手がけている・・・。 でも、どれだけ満足しているのだろうか? 『 ハンニバル・ライジング 』の原作本で 重要なモチーフとして活用された源氏物語が、 映画でどう現されるのを見るのが怖い。 恐怖の怖さではなく、トマス・ハリスの源氏物語の理解度が、 この程度だったか・・・と失望する怖さだ。 トマス・ハリスも、マルグリット・デュラスのように、 映画監督と決別してくれた方が、今後も期待し続けられたのに・・・。
開高 健 2010年07月01日 コメント(6)
中原中也と高橋幸宏と夫と・・・ 2009年08月13日 コメント(4)
中原中也 蝉 1933年 8月14日 2009年08月10日 コメント(7)
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