ビジョンとは何か1
ビジョンは普通、想像力と訳される。この訳は正しいのだろうか。 ビジョンとは見ることであり、光景でもあり、見えるものの幻覚のことでもある。 あらゆる「見せてくれるもの」、視覚的な映像を「映している当の物」がビジョンだと考えていいだろう。テレビも、テレビジョンと命名されたビジョン機械である。テレビは想像力に代置して、同じ機能を司るアウトライナーの一種だったのである。 テレビには構想力を予想させる物が含まれているが、テレビジョンが扱う物は、暗い実質の図式ではなくて、キラキラと耀く形骸化した構想による産物の方である。人間の想像力の代わりに、代置して見せてくれる映像の方なのである。これを想像力と呼ぶのは誤りのような気もする。 この、機械の見せるバ-チャルなビジョンではなくて、人間のビジョンの方を考えて見よう。 人間の方のビジョンも、ビジョンは必ず○○のビジョン、なのである。そもそも、すでに構想が示した枠の中でしか意味をなさない、決して全体像が明るくならない映像なのである。ビジョン一般など、形而上学的基礎の在るものでなければ存在しない。 テレビジョンは、そんな形而上学的基礎の上に立つビジョン一般を扱う機械であるが、人間のビジョン一般もまた、形而上学的な基礎無しには提示出来ないものだろう。 つまりビジョンは、もともと空虚な仕組みなのであって、そこには多様な実質は含まれていない。これはビジョンが、仮置される当の対象ではなく、単に仮置かれた方の、アクチュアルな代物の方だからである。具体的な形を持つ設計図のような、定義済みの形骸の方だからである。これは想像力というより、映像化現実力とでも言いたいくらいだ。 ハイム氏は、このビジョンに構想力が含まれていると考えているようだ。 しかしテレビジョンの構想にはバ-チャルなものは一切含まれていない。それは厳密に定義され、道具関係を組み立てられてあるビジョン機械である。同様に、人間の想像力にも、構想力の枠の影響はあるが、一切のバ-チャルなものは含まれないのだ。想像力と構想力をごった煮にして、この点を誤解してはいけない。 バ-チャルリアリティ技術がバ-チャルな体験をもたらすのは、その技術がバ-チャルだからではない。バ-チャルな体験をしてしまうのは、個々人の体験者、人間の感性の方である。そしてこの感性を司り、バ-チャルな現実体験となるのは想像力、つまりイメ-ジ化を導くビジョンの見せる力ではなくて、何か暗い時間図式の方である。メタファ-の彼方にある時間の力なのである。