遠隔帰属と臨場感 批評7-5-2
Piaget(1954)の研究は、この問題(自己と、非自己の問題)をあつかっているらしい。自己と非自己の構造は、瞬間的な帰属としては捉えきれないという。 またDiavid Katz(1925/1989)の研究は、感覚刺激は必ずしも主観的なものと客観的なものに分けることができないということを述べているそうである。視覚聴覚のみならず、触覚も「外界にある物体として体験されるGibson(1962.1966),Katz(1925/1989),Weber(1846/1978)」という。特に興味深い例として、探針による体験実験(Gibson,Katz,Lotze)を述べている。さらに触覚による視覚代償装置ついても述べている。Bach-y-Rita(1972),White(1970),White et al.(1970) 探針による遠隔帰属に重きを置く傾向は、「ナイ-ブリアリズムに陥りやすい」という。だが、知覚されている物体は、中枢神経系によって構成されたものだということを、著者は常に確認したいようである。 探針を通じて、人は直接物に触れているように錯覚する、というわけである。これを、直接、物に触れていると考えてはいけない、と言っているのである。ス-パ-マリオの世界は、あくまで拡張された身体と構築された仮想物理空間であって、そのリアリズムはナイ-ブに受け止めてはならない、と言っているのである。 ナイ-ブさから遠ざかろうとするこの意図には実はゲ-ムというものを考える上では疑問が感じられるのだが、先を読もう。 遠心性信号系と求心性信号系、つまり筋肉と感覚の間に規則的な関係があるときに遠隔帰属(感)が生じるということの仮説から出発し、視覚代償装置などでは、遠隔帰属は多大な練習を要することから、著者はその仮説を修正していく。 観察者がモデルとして規則的な関係を身につけることで、その場合の遠隔帰属は成り立っているのだと。そのモデルは、思考などとは独立に機能する表象の体系だという。それはPiaget(1954)の「感覚運動スキ-マ-」という考えに沿ったものだということが示される。 次に著者が持ち出すのは、哲学者Polany(1964,1966,1970)の考え方の紹介である。 観察者の中心的意識というものは、最初は機能の各要素に気づき、技能が習熟するにつれて、それは遠隔環境に向く。ついにその連関には副次的意識のみが向くようになり、やがて連関は透明になる。 たとえば新言語学習において、認識することや単語に気が付き、やがて発話の意味そのもの(遠隔環境)に中心的意識が向けられ、やがて連関は意識の上では見えなくなる。 「この説は、臨場感と遠隔帰属の意味を考察するのに直接適用できる」と著者は言う。 中心的意識と副次的意識、この二つが出現して、臨場感や遠隔帰属を起こしているというわけである。 「感覚器官のある場所とは違うどこかに存在しているという解釈のみを感覚デ-タが支持すれば臨場感となり、一方、遠隔地のみならず、そこと観察者をつなぐ装置/連関の両方を感覚デ-タが表象する場合に遠隔地への遠隔帰属は生じる」と、著者は述べる。 ゲ-ム上において、マリオを操っている手は、すでに意識からほとんど消えているのだが、操作しているという意識は残っている。だから感覚デ-タは、主人公かつ拡張された身体であるマリオと、マリオというキャラと観察者をつなぐ装置/連関の両方を表象している。このゲ-ムはしたがって、わずかな臨場感と、主として遠隔帰属を感じさせるのである。 生花は、自然では起こりえない出会いを演出する。背景はアステックス。