庭園 (備忘録4)
庭園が技術を競うような場であるなら、優秀な庭園とか劣った庭園とかがありうるのだろう。しかし現実には、西洋でも庭園はガーデニングの趣味をこそ競う場なのである。 それでも時折、技術的なノウハウや自己の技術力を自慢する人々が居る。庭の本来の姿がつかめないと、自らのこころもつかめない。庭が技術の集積で出来ているなら、その人のこころも技術の集積でできているのだろう。 そもそも技術の庭といった。そのようなものが構想可能だろうか。 実は、これを成し遂げた分野があるのだ。それは記号論理学という世界である。 論理の飛躍についていけないと思うので、文字と庭の関係あたりから掘り起こしてみよう。文字というのは一種の庭であるということ、更に、そこには技術の萌芽があるということをである。 文字というのは形で表現された何事かを伝達するためにつくりあげられた違和感である。自然のものでないそれを目にして、こころが疼き、伝達が可能となる。それゆえ文字は文化であることは間違いない。文化の仲介力と形を、ともに継承可能とするバーチャルな何かなのである。この「何か」に対して、それは「庭」であるというのが、小生の与えたい解答なのである。 私どもは文字を自分という現実に受け取るにあたって、それを庭として、こころの庭に受け取るのである。そして当てはまる形を探す。当てはまればそれは音や意味に代置された自己を主張するし、当てはまらなければ違和感のままで残る。そしてすぐに消えてしまう。 この初源の庭での出来事のどこに、技術の萌芽があるのだろうか。 冬場は日当たりの悪いことがわかったサンクンの作業場。ビニールフレームで覆う案も中止。