中国残留日本人孤児の問題
事は政府の責任の有無を巡っての裁判の形となっている。だが、実際には政府がどんな対応をしたのかという問題に過ぎないと思う。 政府は実質の対応をせず、生活保護制度を利用させるという安易で間違った道を選んだ。その是非が今回の裁判の要点だと思うのだが、それだけではない。原告の日本人のメンタリティが、ほぼ完全に中国人のそれであるという問題もある。つまり曖昧な決着や中間の判断保留や、面子を潰された形でも実質を得るという、日本人的な発想は彼らにはないのに、それを強要してきたという問題もあるのだ。 物心ついてから、おまえは実は、鬼畜のような事をしてきた日本人の子だよ、と言われた肩身の狭さを考えてほしい。そんな自分を仲間に入れて育ててくれた一族郎党の人々に恩返しを考えるのは中国人のメンタリティがなくても、そうだろう。ましてや中国人の一族への思い入れは、大家族制度を失った日本人には理解できない。 生活保護制度では、遠縁の家族まで呼び寄せて、収入申告もしないままアルバイトして金を溜める中国人を保護はしない。しかし呼び寄せる日本人孤児は、それを当然の権利だと思っている。必死で働いても、それだけでまともに食えない社会だということを認識していないのはもちろん、肩身の狭い思いを持ちながら、 自分の生涯で築いた血縁を断ち切るつもりなど、毛頭ないのだ。 この問題の背後にあるのは、基礎文化の違いという問題である。世界の中で逆立ちした状態にある日本人にとって、正面から直面したことの無い問題であるのだろうが、多くの外国人を迎えるグローバル社会の中で、この分野は今後ますます深刻な問題を増やすだろう。私たちの先祖が建国当時の過去に直面した諸問題が、今や日常的に出てきつつあるのだ。内輪の政治権力闘争に明け暮れる要人たちに、その自覚があるのだろうか。