情報とデータ12(仮想現実)
これはおかしな言葉である。幻影のごとき現実だというのだから。また、逆に言うと現実が幻影だというのだ。 だからバーチャル・リアリティ技術を提唱した工学技術者たちの多くは、この言葉遣いを嫌った。彼らの多くは仮想現実「感」あるいはもっと直裁に「人造現実感」という呼び方をしたがっているようだ。 この技術は、人間の現実感を直接に操作する、工学を中心とした諸技術体系、つまり情報システムなのである。情報とデータを扱う諸学問が、この技術に目を留めないはずはない。当然産学共同体として、より強力な、より完全なシステムを目指して研究が続けられているはずである。 しかしそのシステムの全貌は見えてこない。人間とは何か、人間の現実とは何か、という基礎学自体がいいかげんだから、当然である。更に、技術の成果自体が、それらの人間的な諸々の曖昧さをいっそう際立たせてしまう。現実には風穴が開いたのだ。 人間のビジョンや構想や感受性なども扱うのに、肝心のビジョンや構想や感受性の正体もわかっていない。現実とは何か、ということさえわかっていない。わかっていないのに、それをメカニズムとして再現しようと努力しているのである。 誰がサボっているのかは明白である。目立った成果をあげることがないので、産業界から金を出してもらえない基礎学がサボっているのだ。その筆頭が哲学である。 哲学にも役に立つ分野がある。そう言い出した連中は基礎をほっぽりだして応用数学や人間工学技術、大脳生理学などの分野にもぐりこみ、仮想の現実を作り上げて稼いでいるのだ。それ以外に哲学で稼ぐ方法はない。教育機関から金をもらう方法はあるが、哲学は教育ではない。 情報ー伝達が仲介者=金=権力として社会活動を支配している以上、この基礎を穿り返そうとする伝統的哲学に未来はない。社会活動から離脱して生き抜くことはできないので、変質するしかないのである。生きていける現実への足がかりは、仮想のものとして作り上げるしかないのだ。バーチャル・ガーデニングが必要なのである。 1月に咲いた西洋アサガオの種がいっぱい取れた。