夢の能30
時のめくばせは、そこにバーチャル感がある限り、夢の現実でも、目覚めた現実でも、等しく訪れる。 夢の場合にはバーチャルさの程度が著しく低いので、現実感も薄く、目配せもほんのわずかである。むしろ先験的な仮像が仕組んだ弁証論が、つまり想像力の働きの方が活発なので、時のめくばせは、過去から来て空しく消えていくだけのように感じる。そのつど強力なイメージが、過去に経験したクラスの反復として構成されるが、それは正規の時間とはなりえないのである。 つまり構築されて過去へ落ちる、図式によるオブジェクト・クラスは、夢では構築されないのである。 想像力の働きは、経験で得たクラスを使って新しいイメージを形成するが、それを再定義して再利用可能にする能力は持っていないのであろう。 定義して、集めたイメージ、つまり経験的なクラスを時間的な定義済みの”もの”へと再利用する力こそ、カテゴリーにおける悟性の働きなのだろう。 その純粋な時間として数があり、複雑な建築物として言語がある。そう単純に考えていいのではあるまいか。 夢の中では、数も、言葉も、曖昧である。たまに詳細な言葉が出てくることがあるが、それらは自らが発した言葉であっても、他者の発した言葉のように聞こえる。 夢の眼前の”もの”は明確な定義の言葉をもたず、その言葉はむしろ変容の中に消えていってしまう。 夢で詩を書いても、大概が目覚めて想いだしたら、つまらない言葉の羅列である。 想像力は、所詮、空しい推論のイメージ化に過ぎないのだろう。経験的なクラスを利用して、先験的仮像が推し進める弁証論にすぎないのだろう。早い話しが、出来そこなった言い訳や悔やみ言のようなものである。夢を欲望充足だとフロイトは言ったが、むしろ言い訳が見せるビジョンだと言ったほうがいいかもしれないと小生は考えている。