ものとこころ 9(ハイデガー)
見えているもの、自己のこころとつかんだ物のありかたを現象として定義把握し、それを厳密な学にまで仕立てようとしたのが、フッサール先生の現象学だった。 ハイデガーは直接にはフッサールの弟子であるが、厳密とか精密とかいった言葉を余り信頼していたとは思えない。これはよく批判されている事態なのだが、むしろ相似象や語呂合わせに見出される目配せに、気を配っていたふしがある。 純粋な現象とか、学術的体系とかといった汎世界的な視点より、むしろささやかな「あんよ紐」をこそ、より分けようとしていたのだと思う。 日常の時間や、個人の憂慮としての時間を見直すその背景に、存在論の見直しという大命題が語られる。あらかじめ普遍的に、いやおうもなく提供されている事柄の中心が、まったくの手付かずで置き忘れられていることを、あらためて告げている。 主語や対象の何であるかを追及する前に、経験的かつ先験的な現象が「ある」ではないか、と。それは時とともにあるではないか、と。 そしてやがて、この問いは挫折し、偉大なライプニッツ先生に正面から向き合って、それは存在なのか?むしろ無ではないか?と、問い返すのである。 私どもは、世間の機嫌取りに大言壮語する学者たちに、よく騙される。ハイデガーもナチズムという民衆運動の嵐を乗り切らねばならなかったのだから、その点は割り引いて考える必要がある。しかし本当は何を目指していたのか、誰と対話していたのかという振り返りは必要だろう。 現象と向き合うさいに、ハイデガーの態度はフッサール先生の態度とは明らかにちがう。もっとささいな視点、より個人的であると同時に、より大衆にアッピールするナチズム風といってよい大命題を、あえて仕立てて大言壮語している。これに騙されては元も子もないのである。 実存主義思想の盟主として、ハイデガーを祭り上げるのは無意味だと思う。むしろ世間の狂騒を避けて遠い過去の時間へと向き直り、ケーニヒスベルクのカント先生と密かに対話している様が浮かんでくる。