virtualgardeningを振り返って11
それでは、科学技術のあの目覚しい獲得は何なのか。人知ではないのか。 そのとおり、人知ではない、ように思える、と、申し上げたい。 命題を立て、技術的対象を定義し、物差しを選ぶことで可能になる科学技術的手法というのは、人知(という時間)ではないように見える。 アリストテレスがメタ・タ・フィシカを企画したとき、人間的な時間でないものが呼び込まれたのだと考えるしかない。人間の時間ではない、自然の時間という、大きな時間が呼び込まれている。 この時間がなければ、科学技術は推進されない。いわば技術を推進し、見えさせる、図式や構想力の働きを、この時間が司っている。それは史観であることもあれば、設計図であることもある。 そしてビジョンは、この企画された時間が見せる、バーチャル・リアリティではないのか。 科学技術が企画する事柄は、ビジョンとして人知に与えられる。 そのさい、個々人の、いわば小さな時間は、XOR関数の彼方に隠れてしまう。 マルクスは唯物史観という言いかたをしているが、この大きな時間は余りにも巨大で、人知には史観として受容するのがやっとであろう。しかもそれは時間であるから、純粋な時間を扱う拡張された数学が相手に出来る。数学が見える人には、この時間は数学的に見ることができる。科学者であるか否かは、数学という窓が使えるかどうかで、ほとんど決まる。ビジョンというのは、一般人向けのコマーシャルである。 アリストテレスは、エイドス・エネルゲイアという「ものの形・あるいは計量」をもって、この大きな時間を人知のものとした。この時点では、わが国の伝統となんら差異はない。しかし同時に、ものの形とならない、計量不可能なバーチャル・リアリティをも呼び込んだのである。こころのオブジェクト・クラスをである。これは純粋悟性概念の図式そのものではない。企画書を伴う、もっと具体的に仕上がったクラスである。 アリステトレスにおいて、それは自然学および形而上学(メタ・タ・フィシカ)と名づけられた。 科学技術が、その企画にさいし人間を阻害しなければ表にでてこないのは、そういう理由からであろう。バーチャルなものは、明確なエイドス・エネルゲイアを持たない。ただ、バーチャルな庭を持つにすぎない。それは未到来のイデアだからである。アリストテレスが呼び込んだ大きな時間も、この庭に過ぎないのではあるまいかということに危惧を覚える。 偉大なライプニッツは、このメタ・タ・フィシカを究極のデーターベースとして理念的完成に導き、それはサイバネチクス論者たちの、こころの砦となっている。しかしそれは将来神なのだ。危惧は危急を告げている。 これは鬼百合。小鬼百合か。