ビジョンについて 21
今一度繰り返すが、ビジョンは、価値があり、意味があることの枠組み提示なのである。目に見えるだの、鮮やかに注意を喚起するだのといった意味は無い。ましてや想像ではない。むしろ像-想起ー提示である。立て枠なのである。 今ここに呼びかけている価値や意味の枠組み提示ということであって、これはもののクラスではない。むしろこころのクラスの言葉なのである。だから目が不自由でも、ビジョンを受け取るのに不自由はない。 逆に言うと、価値がなく、意味のあることを見出せない有象無象は、ビジョンの前に無視される。ビジョンが出てくると、それ以外のものは眼前から消えてしまう。文字通り、現実からも消えてしまう。 だからビジョンを、小生は、あえてバーチャル・リアリティーだと述べたのである。 価値がない、意味がないことを現実に置いておいても無意味ではないか。価値があり、意味のあることのみが現実であり、追求に値するのである。 これが印欧および中国文化で形成されている現代社会の思想である。 文化はカルチャーと呼ばれるように、耕作することの意味から生まれ、価値を生産することの形として伝承されると考える、極めてドミナントな文化である。 しかしわが国固有の過去の膠着語文化や、バラモンが持ち込んで支配し、今は同じ印欧語族であっても、インドの過去のクシャトリア階層の思想や言語は、違ったのである。 文化というのは、単に伝承されるこころの形にすぎず、価値や意味の有無を問題にしないのが過去の伝統であった。もともと自分のこころが空無であるのに、そのこころの形の伝承に価値や意味を付加して、いったいどんな意味があるのか。サカイ族の雄牛、偉大なゴウタマも、そういったことを述べていたと思う。 伝統の文化では、ものもこころも、議論のテーブルに載せることが大切なのであって、議論に勝つことではないのだと教えてきた。それが和の文化だったはずである。 真実には逃亡と征服の繰り返す、血塗られた危うい歴史であったとしても、長い旅の中で八百万もの神々を集めてきた文化である。クーベルタン男爵の言葉をしみじみと思い出すのは、もしかして日本人だけではないのか。 しかもこの伝統は、ビジョンという言葉の前に、失われようとしている。 過去の想起、写真は荒れた南園原点。