物理的時間・常識的時間 5
ゼノンの論理を思い出すまでもなく、まっとうな論理が通用しないのは、時間の特徴である。これは論理がねじれているとか間違っているから、ではない。 論理が時間を照明しているのではなくて、時間が論理を照明し、跡付けているからである。時間は論理化されて整然とした図式に整えられる。しかし論理は時間を整えはしないのである。跡付けるだけである。ビジョンは、この跡付けの反復増殖企画で成り立っている。時間手順に照明されているわけではない。 アキレウスが亀の後から走る。アキレウスが亀に追いつく、そのいくばくかの間にも、亀は必ず、いくばくかは進む。したがって、アキレウスは亀に、いつまでたっても追いつけない。 ここで述べられている時間は、アキレウスが亀の出発地点に追いつくまでの時間、という、限りなく細分化されて小さくなっていく特殊な時間である。「アキレウスが亀の出発地点に追いつくまでの」特殊な憂慮のクラスが、その特殊な時間が照明しているのだ。つまりアキレウスが亀を追い抜くというのは、もともと想定外で、論理の命題にないのである。 時間は確かに時間(ものとこころの両方備えた)であるが、ここで述べられている時間は、常識的時間でも、物理的時間でもない。 常識的時間解釈が物理的時間を照明しているのだが、その照明の中で物理的時間は、そのつどの物理力学対象の中に見出されている。 独自の振る舞いと、時間を持つ「もの」として見出される。しかし「こころ」の方がイデアやビジョンや命題の彼方に棚上げされてしまっているので、時間そのことを対象の中に見据えることは不可能なのである。 対象化ということの中で、そのオブジェクト・クラス定義の厳密さや精確さの枠を超えることが出来ない。クラスの本来の機能は隠されてしまうのである。 つまり物理的時間というのは、時間の持つ本来の機能は隠されたままで、そのつど対象に代置された仮想のオブジェクト・クラスにおける力学上の常識的時間が、力学公式として、再構成可能な図式として見だされるべく探求されるものである。非常識なクラスや、こころのクラスは無視されるのである。もし、こころのクラスや非常識なクラスに注目する科学者が居たら、この方面の研究は多いに進展すると思われるのだが。