時間とは何であるか 1
これまでやってきたバーチャル・ガーデニングの成果は、それが偽者であれ化け物でもあれ、時間がモノであるがゆえに認識できることを告げている。存在するモノである。 時間がモノで「ある」ことにより、私というこの独特の認識は立つ。そこに(こころの)庭が形成されているがゆえに、時間があることが跡付けられてある、のである。 このモノは計測可能な延長や考える主体といった分裂の原構造ではなくて、むしろ自己乖離ゆえの、繰り返す受け取り直し(反復)である。 つまり常に時間的な(こしらえ)モノである。くり返し受け取り直すこと、そして主意識と副次意識の分裂が齎すバーチャリターである。 同じものをおなじものとして認識するには反復が必要であるし、差異は時間の存在が、つまり分裂してしまった亀裂が弁証する。論理的に装って考えると、そういった事柄になるのだろう。 しかし実際に見るべき事柄は時間手順の跡付けである。論理ではない。形而上学的論理は、その跡付けを弁証するために立てられた空想に過ぎない。弁証が目的となってしまっては、哲学がそこで終わってしまう。 時間とは何であるか、そう問うことは、形而上学論理を立てるのが目的ではない。不安で薄暗い、この庭の方を問うことである。弁証は必要だが、贋金の使用は、ほどほどにしないといけないだろう。それが目的ではないからである。 時間もまた、常にこしらえモノである。そこに形成された「こころの庭」なのである。 誰が作るのかというと、常に反復や自己乖離が、つまり時間が立つその理由が造る。その憂慮は弁証されて生命の営みともなるし、イデア化されて私という主語ともなる。 本当は、こころの庭が先に立って、それのみが薄暗く口を開く。認識する主語としての私は、最後に贋金としてやってくるのである。 しかし弁証にさいしては、私が立たないと何事も明晰には立たない。特に印欧語の場合は深刻である。同様に、日常においても科学技術においても深刻だということである。