時間とは何であるか 21
庭は、こころの形化である。つまり文化(フミカ)である。 価値を齎す技術や美術のカルチャーではなくて、芸能としての文化なのである。 このことが見えていないと、庭の機能は理解できない。それが時間と密接に関係している、その関係も、である。 時間とは何か、という問は、このこころの庭を訪ねて論議に持ち出すことである。 それは価値を齎す技術や芸術のカルチャーではなくて、芸能としての文化を見出すことである。 芸能というのは、能を提示する、と言うことである。時間枠を、面白く見せる。日ごろ見えていない瀬の流れを、小石を置いて白く面立たせて見せる、ということなのである。 それが伝統の芸能である。論議できる時間枠を見せるのが目的なのである。それを美人局で評価するのが目的ではない。 人のこころは庭を立ててモノをモノ化し、同時にそれを憂慮する時を立てる。その時は時間としてクラス化されて仮像の違和感をもたらせるが、問いただそうとしても対象化できない。それは能として、幽玄なクラスとしてしか論議に乗せることは出来ないのであるが、芸能が、その役割を担ってきたのである。 自己の自己性は、和の伝統の芸能においては幽玄なものとしてしか、立たない。建前という、能面としてのみ、クラス化されうる存在なのである。つまり、明晰判明な主語としては立たない、と言うことである。 そして実はモノの方も、明晰判明なモノとしては立たない。科学技術の対象としては立たないということでもある。科学技術における膠着語の不利は、ここから来るのである。 しかし科学技術が立つ、その同じ理由から、明晰判明に対象化できないこころもまた、ズブエクトウムという形で明晰判明に立たされる。そのことにより、科学技術の企画にない美人局にひっかかり、実に容易に疎外されるということである。 科学技術に、人間のこころは不要である。その理由が、ここにある。