癒しという言葉は嫌いだ
小生は環境問題に疑問を持つし、地球に優しいという言葉が嫌いというのは過去に述べた。勝ち組負け組という、小泉政権のもたらした下品な差別言葉はもっと嫌いだし、流行の癒しという言葉も、かなり嫌いである。 何で癒されねばならんのか。 まるでキズだらけにされて明日の命もわからない満身創痍の兵士が、売春宿に救いを求めているようなイメージが沸く。 よりよい明日を求めて毎日を楽しく過せばいいのに、なんで苦行を日課にして、得たキズを束の間の散財で癒さねばならんのか。 小生が里山で遊ぶのは、癒しではなくて日常形成への努力であり、庭つくりである。 毎日の仕事でこころに隙間風が吹くのであれば、それはバーチャルな現実が見えてきているので、庭つくりには好ましいことである。湯治で癒して、こころの乖離を癒そうなどというのは、人間であることをやめて、何も悩まない金稼ぎマシーンになりたいだけであろう。 日常のこころの自己乖離は、大きければおおきいほど現実感がある。 確かに価値はないかもしれないが、それが、人間である、ということなのである。日常に埋没していたら、他人に操られる駒に過ぎない。戦争に駆りだされる殺人マシーンにすぎない、ということである。 労働戦士というのは、戦士である限り、殺され殺す機械にすぎない。 現代社会の論客の多くが述べるが、人間は社会的価値があるから人間なのだという考え方は、人間という基礎定義が間違っていると思う。 人間は癒されるべき機械部品ではない。むしろ自己乖離して現実のバーチャルさを悟る時間存在者だと思う。 万物の尺度として人間はある、あることのあることにより、あらぬことのあらぬことにより、というプロタゴラス先生の教えは、常に思い出されるべきである。これは物差になれ、と言っているのではない。