クッシャラの王 6
ネシャ貴族の娘であるクリムマは、それまで権勢の真っ直中にいたはずだった。 しかし、親しくしていたアニッタが犬達の司令官として送りだされたことにより、悲惨な仕打を受けることになった。犬である男の婚約者とされたばかりに、である。 有無を言わさず、ネシャの太陽女神の神殿から引きずり出された。 大臣である父のもとからも、遠ざけられることになった。 不自由な体のまま牛車に乗せられて、犬の雇主である西北の山国へ、ハットウシャのピュシテイ王のもとに送られたのだ。婚約者のアニッタが役目を終える迄の、人質とされたのである。 アニッタ達が未だ出撃の準備中に、前触れもなく、クリムマと大勢の人質の女子供の一行が、ハットウシャへ向けて出発したのだった。 食料をけちるネシャ王の企みは、奥が深いのである。 その束の間の時が、夕暮れの渡り鳥の影のように、アニッタの脳裏を背後から照らす。 ・・・・・ 久しく会うことも出来ないでいたクリムマは、質素な服装で牛車の上にいた。 すでに19才にもになろうというのに、その肢体は相変わらず子供のように小さい。 かぶり物のため、少年のようにも見えた。 だが、細い首筋の肌は白く、鼻筋は高くて、遠くから見ても女神像のようだ。 クリムマは侍女に指図して幌を全部上げさせ、人混みを見回して、見つめているアニッタを目で探り当てた。 目が会うと寂しそうに微笑んで、自由な方の片手を上げると、何事もなかったかのように土埃を残して去っていった。今生の別れとなるかもしれないというのに、一言も交わすことの出来ない、寂しい別離だった。 アニッタは土埃に汚れた顔を上げ、未だ弱々しい太陽女神シウの視線を正面から浴びて、立ち尽くした。 ふと、気配を感じて振り向くと、横に武将がいた。 クリムマの父、ネシャの老武将、タルナである。タルナは話しかけてきたが、いつもとは違う。 小声で、ためらいがちであった。 「お前だけの命だと思うなよ」 「・・・・」 「あのもの達全員の命が、お前の任務達成にかかっているんだ」 「承知しております」 「もし包囲戦に失敗したら、俺はネルガル神の前まででも、お前を追いつめていかねばならん」 「・・・・・」 「命じられた任務をしくじるな。そして俺の言葉と、お前がネシャ軍の総司令官(ダビドウム)だと言うことを、決して忘れるな!」 いつもの戦場での態度と違う。饒舌で、余裕のない言葉である。 アニッタは、意外な気がしていた。 軍事教官でもあったタルナは、炎上するクッシャラから幼いアニッタを縛り上げて救出した男でもある。これまで心情的にはアニッタの味方だと思っていたのだ。 しかし今の言葉は、娘の婚約者である王の息子に送られる言葉ではない。他人の飼い犬に投げられる、腐った肉だ。 クリムマを与える約束は、ネシャ王のきまぐれによるものだけではなかったのである。 そこにはネシャ王の奥の深い企みがあり、大臣間の権力闘争も絡んでいた。 何人も居た息子を戦場で次々と失い、歳老いて権力基盤がぐらつき始めていたタルナが、貧乏くじを引かされたのである。 アニッタの追想は、そこから再び、足早に遠ざかった。 無愛想なネシャの武将タルナの峻厳な風貌。額から天頂までそり上げて武具を付けた老人の顔が、再び養父ピトハナの、皺が刻まれた弁髪の顔の記憶と重なったのだ。 遠い日の、冬霞のような記憶の彼方にある、父王の思い出と懐かしい家庭。 そしてそれは、そのままクッシャラの城の貧しい食卓へと至った。 ネシャのそれと同じ高床の館ではあったが、ささくれだった木造の粗末な館であった。 それから、父の支配していたクッシャラの民の惨めな暮らしを思い、自分の空腹を思いだした。 記憶にある焚火も、どこか小さい。今は、すでに夜露が耐え難い季節に入っているのである。 アニッタは未だ城壁にぶら下がった不自由な姿勢のままで、はかない記憶の糸をたぐり寄せ、つい昨夜の夕方へと戻っていった。 軍議自体が、食料給与の途絶えで進退窮まっていた土壇場へと、である。 ・・・・・