陰謀の白村江 4
その辰王は、はるか過去に、高句麗王継承の争いに敗れて本国から逃れ出た、卓(たく)という名の人物が受け継いでいた。その時代へ、もっともっと過去の時代へ遡らねば、謎は解けない。 辰王卓は、高句麗における内部抗争に敗れたらしい。 満州地域に燕(えん)国を立てた公孫度と同盟して、燕の公主(王の娘)を略奪婚で伴い、少数の部族民を率いて南韓目指して逃げたのである。経路からして、百済とも取引があったと思われる。 後の高句麗の広開土王(こうかいどおう)碑文に見られるように、燕地域の倭人と高句麗騎馬軍は、その後も常に大規模に抗争していたのだから、その高句麗からの逃亡者と燕の同盟は、ありうることである。また、あの碑文を、倭の大軍が海を渡ってきて、ここでその倭を打ち破ったなどと読むのは、国学者の妄想である。 むしろこの満州に近い土地で、十数万規模の燕地域の倭軍を退治し、余力を駆って海を渡って、倭をことごとく平らげたと読むべきなのである。その高句麗人は、カムヤマトイワレヒコかもしれないのである。 三国志最大の英雄曹操の墓から出た、せん(レンガ)に記載された上奏文書をめぐって、中原域に進出していた倭人の存在についても論争があることも承知である。中国人の学者も日本の学者も、基本線は一致を見ているようである。列島に居たはずの倭人が、そんな場所に出兵できるはずはないと。 だから学者たちは倭をネイあるいはタイと無理やり読み、更に広開土王碑文の前で立ちすくんでしまうだけでなく、旧日本軍の策略だなどと言い出すのである。 しかし魏志倭人伝には明白に記載されている。倭は燕に属すと。鹿島はこれを、南倭北倭は、燕に属す、と読んでいる。 列島の人々が倭だと言っているのではない。燕に、倭人という種族グループが属して居たことを記しているだけなのである。日本人とは、むしろほとんど関係がないかもしれないし、それで問題ない。